おもしろいこと、したいよねぇ。

「おもしろいこと、したいよねぇ」と誰もが言う。ぼくも言う。

社会人になって、二十数年。いつしかぼくにとっての「おもしろいこと」は、「おもしろい仕事」になっていった。おもしろい仕事がしたいなぁ、とぼくは思っている。けれども年間十数冊の仕事を抱え込んでいたアラサー時代、正直「おもしろい仕事」は少なかったように記憶している。多忙を怠惰の隠れ蓑としながら、「おもしろ」をサボっていたように思う。当時はもう口癖のように「おもしろいこと、したいよねぇ」とこぼしていた。


このところぼくは、ずっと考えている。


どうも自分は、なかなか「おもしろいこと」のアイデアが浮かばない。企画を出せ、アイデアを出せ、と言われれば何十個でも出せるのだけど、それが自分にとっての「おもしろいこと」なのかと問われると、案外そうじゃなかったりする。これはなにか、無意識のうちに自分を縛っているこころの柵があるのではないか。その柵をとっぱらって考えれば、もうすこし自由になり、ほんとうのアイデアも出てくるのではないか。


こころの柵は、おそらくふたつある。


ひとつは、儲かること。つまり「売れること」である。

仕事を進めていくうえでこれは、かなり強力な正義だ。たとえば出版の世界において、つまんない本をつくってるなぁ、と思える人がいたとする。なんであんなインチキくさい仕事ばっかりやってんだ、と思える人がいたとする。しかし、その人から「でも、これ百万部売れたんですよ」と言われると、「それだけ求められているんですよ?」と言われると、返すべきことばはあまりない。売れること、そして儲かること。これはおおきな正義なのだ。

逆にいうと、もしも「売れること」を考えなくていいのなら、かなり自由になれるのではないか。


というと、「わたしは売れることなど考えていない」と胸を張る人が現れる。わたしは銭儲けのために仕事をしているのではない。社会を前進させるため、この仕事をしているのだ。そういう自分が現れる。ぼくのような俗物でさえ、その成分はあるし、いまの若く優秀な人たちはもっとそれが強いように思う。

でも、残念なことに、その正義から「おもしろいこと」は生まれにくい。誰もが是認せざるをえないような「善」は、なかなかおもしろくならないのだ。


つまりたぶん、「儲かりもせず、なんの役にも立たず、誰からもほめられないこと」の先に、ぼくの考える「おもしろいこと」はあるのだろう。あるいはそれを「くだらないこと」と言い換えてもいい。


ものすっごく本気で、いっさい手を抜くことなく「くだらないこと」をやる。きっと、そのくだらないなにかのことを、「豊かさ」と呼ぶのだろう。お金や拍手を求めすぎる仕事は(たとえ正しくとも)豊かじゃないのだ。


……まだ考え途中の話なんですけど、このへんで一度アウトプットしておいたほうが頭の整理にもつながると思うので書きました。

教祖猫を噛む。
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古賀史健

何度も読み返したい素敵な文章の数々vol.10

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