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振り向かないおじさん。

日記なのかなんなのか、もっとつけておけばよかったなあ、と思う。

たとえば二十代の自分がなにをしていたか。どんな仕事をしていたのか。そのへんについては書いていた雑誌を思い出したり、つくっていた本を思い出したり、付き合っていた編集者を思い出したりすれば、なんとなくわかる。あるいは「あいつとあの店で飲んで、こんな話をしたっけなあ」みたいなことだって、思い出せるのかもしれない。当時の冬はあのコートばっかり着てたよなあ、なんだか若かったよなあ、なんてへらへらしながら。

けれども二十代の自分が日々なにを感じていたかについては、もはやうまく思い出すことができない。おぼろげな「感じ」くらいは思い出せても、自分がそれをどんなことばで処理していたのか、もうなんにもわからないと言っていいくらいだ。

誰に見せるつもりでもない、とても人様に見せることのできない感情を書き殴ったような日記が、せめて1年分でもいいから残っていれば、おもしろかったんじゃないかなあ、と思う。


最近「かっこいいおじさん」のありかたについて、考えている。

老害ということばが生まれて以降、なんとなく「老害ではないおじさん」のことを、かっこいいと呼ぶ空気が支配的になっている気がする。若者のよき理解者であることが、「かっこいいおじさん」の条件になっている。

でも、若かった自分の「感じ」を思い出すとそれは、いちばんかっこわるいおじさんのありかただ。おじさんは、ほんとうの意味でおれたち(若者)と同じ「感じ」を察知することはかなわず、せいぜい自分の若いころと現在のおれたちとを重ね合わせて「わかるよ」と言っているに過ぎない。それは、いちばんなんにもわかっていない人のことばだし、おもねりだ。すり寄ってくるんじゃねえよ、みっともねえ。……みたいなことを、当時感じていたような気がする。

ぼくがかっこいいなあ、とあこがれていたおじさんは、いつだって「追いかける対象」だった。つまりはこっちを振り向いたり、歩み寄ったりすることなく、ただ前だけを向いて走っていた。その、次にどっちに進むかわからないたのしげな後ろ姿に「早くおれもそっちに行きたい」と思わされ、あこがれていた。


ものわかりのいいおじさんに堕ちるより、後ろ姿がたのしそうなおじさんになりたい。後ろ姿を見てくれる人がいるのだと、信じていたい。当時の自分が追いかけるようなおじさんに、なっていたいのだ。