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あの人のカッターナイフ

「もしも自分が小説の登場人物だったら、どんなふうに描かれるんだろう?」

思考実験のひとつとして、ときどき考える設問だ。自分で自分を描く小説ではなく、どこかの作家さんが「古賀史健」という人物を描いたらどうなるのか、考えてみる。

その作家さんは、僕の履歴書1枚を用意して、そこに書かれた「事実」を淡々と並べていくのだろうか。西暦何年に福岡市で生まれて、ナントカ小学校に入学し、中学ではサッカー部に入り、高校では、みたいな話を書いていくのだろうか。それを読んでぼくは、「ああ、まさにこれは僕のことだよ!」と思うのだろうか。……さすがにそんなことはないだろう。「ぜーんぜんわかってねえよ、おれのこと」と反発するに違いない。

カート・ヴォネガットは、その創作講座のなかで、こんなことを述べている。

「どのセンテンスにもふたつの役目のどちらかをさせること。
 ——登場人物を説明するか、アクションを前に進めるか」


『バゴンボの嗅ぎタバコ入れ』より

僕という人間を説明する要素は、履歴書のなかにはない。

たとえば僕は、古賀史健ではない。僕の「名前」が、古賀史健なのだ。同じく僕は、ライターではない。僕の「職業」が、ライターなのだ。要するに僕は、男でもない。僕の「性別」が、男なのである。……すべては属性の話であり、そこに描くべき「僕」はいないのだ。

だとすればこの「僕」を、どうやって描けばいいのだろう?


うちのオフィスに遊びにきてくれたことのある人は知ってると思うけど、僕は整理整頓が苦手だ。机の上はごちゃごちゃだし、机の下までごちゃごちゃだ。到底きれい好きとは言えない人間である。

けれども僕は、手紙の封を開けるとき、手でびりびり破くのが嫌いだ。たとえ探すのに10分かかったとしても、カッターナイフを探し出し、きれいに封を開けたい。それがゴミ箱直行のダイレクトメールであったとしても、である。

おかげで僕は、瞬時にそれを発見できるよう、そしてすぐさま封を開けられるよう、自分の机に複数本のカッターナイフを常備している。

そしてもし、作家さんの描く小説のなかの「古賀史健」が、カッターナイフでそんなふうに手紙の封を開けていたら。僕は間違いなく「ああ、まさにこれは僕のことだよ!」と感激するだろう。

ピントを当てられた場所に「僕」はいない。画面のはしっこに映り込むような意図せぬふるまいのなかにこそ、「僕」はいるのだ。


「この人にとっての〝カッターナイフ〟はなんだろう?」

誰かと会うとき、話すとき、原稿を書くとき。いつもそれを考えている。