見出し画像

クリエイターと「いいひと」の関係。

このところ、「いいひと」について考える機会が多い。

むかしから作家や芸術家には、どうにもならない人格破綻者、というイメージがつきまとっている。無頼派という言葉はまさにそうだし、むしろ人格が破綻していてこそ、こころに闇を抱えていてこそ、優れた表現ができるのだという話もよく耳にする。

しかし、ぼくの身のまわりにいる優れたクリエイターたち——それは作家や芸術家というよりは、やはりクリエイターの語がふさわしい人たちなのだけど——は、一様にみな謙虚で「いいひと」である。人の迷惑になるようなことはしないし、独善的になりすぎることもなければ、攻撃的になったり誰かを傷つけたり踏みつけたりもしない。常識人という言葉が当てはまるかどうかはともかく、ちゃんと「いいひと」なのだ。


最近少しずつわかってきたのは、それがコミュニケーションに関わる問題だということだ。

クリエイター(表現者)である彼ら・彼女らは、対人コミュニケーションのなかで「おれのすごさ」を見せつける必要がない。なぜならクリエイターは成果物を通じて、いつも「わたし」を表現し、証明している。たとえばひとつの作品をつくったとき、自分がどんな思いでその作品をつくり、そこにはどんな技術が投じられ、どんな達成があったかなんて、ほんとうのクリエイターならば語る必要はない。目の前の作品がすべてを語ってくれるし、それ以上に雄弁な言葉など、基本的に嘘なのだ。

なので優秀なクリエイターほど、対人コミュニケーションの場面では寡黙になり、謙虚になる。虚勢を張る必要をまったく感じず、なにかを証明する必要も感じず、争うことの必要さえ感じない。「わたし」を表現、証明、開陳する場と手段は、ほかにあるのだ。


個人的に「ラスコーリニコフ・コンプレックス」と呼んでいたのだけど、むかしぼくは、自分が平凡で常識的な「いいひと」でしかないことに、かなりおおきな劣等感を抱いていた。無頼をきどってやらかした若気の至りは、山のようにある。

けれども最近少しずつ、常識人の自分を肯定できるようになってきた。


自分は「そこ」で争う必要はないし、自分が好きなあのひとも、尊敬するあのひとも、みんな「そこ」で小競り合いしたりしてないよな。たぶん、それはクリエイティブへの静かな自信なんだろうな。そんなふうに思うのだ。