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いいインタビューの条件。

来年ぼくは、「文章の教科書」のようなものを書くつもりでいる。

いまのところそれは、「ビジネスや就職活動にも役立ちますよ」的な本ではなく、もっと具体的で専門的な「ライターの教科書」に近づけたかたちの本をイメージしている。なんといってもコンセプトは、「ぼくが文章の学校をつくるとしたら、こんな教科書がほしい」なのだ。

当然その本には、「取材について」の章も設けようと思っている。ライターにとって、取材は最後のブラックボックスと言ってもいい。たとえばなんらかの組織に所属する新人のライターさんが、なにかの原稿を書く。その原稿は上司や先輩がチェックし、口頭でアドバイスをしたり、がっつり赤ペンを入れられたり、あるいは昔ながらにビリビリと原稿用紙を破られたり(それに相当する全ボツを食らったり)する機会があるだろう。アドバイスの妥当性はともかくとして、第三者による客観的評価と指導の機会が、ちゃんとある。それが原稿というものだ。

それに対して「取材」は、第三者からのフィードバックを受けづらい、という構造的な欠陥がある。まさか毎回上司をつれて取材に行くわけにはいかないだろうし、1時間や2時間にもおよぶ取材音源を上司に聴いてもらうこともかなわない。その取材がうまくいったのかいかなかったのか、評価と判断ができるのは、原則として自分だけだ。お手本らしいお手本もなく、道しるべもなく、いきなり「現場」に放り出され、見よう見まねでやってみる。自分なりの学びや反省をくり返しながら、なんとか成長していく。少なくともぼくにとっての「取材」はそういうものだったし、これは多くのライターにとっても同じじゃないかと思っている。ライターの教科書をつくるからには、「取材」の章を避けては通れない。

取材における「場」の設計とは。

そんな感じで「いい取材」や「いいインタビュー原稿」について考えていたところ、とってもおもしろいコンテンツに出会った。さすがに本に引用するのはむずかしい話なので、あたまの整理も兼ねてここに書いておきたい。

「ほぼ日刊イトイ新聞」で今週火曜日からはじまった連載「『まちがいないヒット作』忠臣蔵を知りたい!」だ。

コンテンツの背景から説明すると、ほぼ日は現在「ほぼ日の学校」という、古典を学ぶための学校を運営している。今年の1月から「シェイクスピア」をテーマにした全14回の講座がはじまり、この7月からは「歌舞伎」をテーマにした全9回の講座がはじまる(すでに申込み終了)。

そして来月、歌舞伎ゼミの公開講座が開催される。そこでは(歌舞伎の上演ではなく)落語家の桂吉坊さんによる「忠臣蔵」の芝居噺が上演される。いったいなぜ「忠臣蔵」なのか。そしてなぜ落語の「芝居噺」なのか。さらに歌舞伎の魅力とはどんなところにあるのか。そのあたりを歌舞伎ゼミの先生でもある早野龍五さんに、ざっくり語ってもらおう。これがコンテンツの背景だ。ほぼ日のなかでも、わりと目的のはっきりしたコンテンツといえる。

さて。自分がライターだったとした場合、この取材をどうはじめるだろう。そして原稿を、どこから書きはじめるだろう。ほぼ日のスガノさんが選んだ「はじまり」は、意外にも程があるものだった。

—— 今回は、早野龍五フェローに、
   忠臣蔵についてうかがいたいと思います。
   その前に、歌舞伎について
   訊いておきたいことがあるのですが。

早野 はい。

── これからほぼ日の学校で
   Hayano歌舞伎ゼミが開講されますが、
   フェローは歌舞伎を好きになって、
   身の上にいいことはありましたか?

早野 いいこと!?

── はい。

早野 あります。
   ひとつ挙げるとするならば、
   この歳になってですよ。

── この歳になって。

早野 毎月必ず、女房といっしょにやることがある。
   これはほんとうに、けっこうかなり、
   いいもんですよ。

第1回「夫婦の会話はありますか?」より

歌舞伎それ自体でもなく、忠臣蔵でもなく、芝居噺でもなく、「身の上のいいこと」。変化球というよりビーンボール的な、いきなりの脱線から、話がはじまる。一瞬虚を突かれたであろう早野さんは、そこからすくっとスガノさんの脱線に付き合い、「夫婦の会話」というとても興味深い「身の上」を語りはじめる。おかげでここでは——タイトルでは「忠臣蔵を知りたい!」と謳っておきながら——忠臣蔵に話が及ばないまま、回が終わる。

この導入を「ビーンボール的」と書いたのは、これがほんとうに危険な球でもあるからだ。「あのね、歌舞伎でもなんでも、趣味に現世利益的な『いいこと』を求めるなんて、いまの人の悪い癖ですよ」みたいな感じでピシャリお説教を食らう可能性だって、十分ありえるからだ。実際にお説教を食らうまではいかなくても、心証を悪くする可能性は存分にある。

それではなぜ、この脱線は成立したのだろうか。

もちろん、早野さんのお人柄もあるだろうし、スガノさんのキャラクターもあるだろう。何年もかけて築かれてきたおふたりの関係性、信頼の積み重ねもあるだろう。そういうブラックボックスを想像するよりもおもしろく、ぼくが「なるほどなあ!」と膝を打ったのは、記事のなかに挿入された1枚の写真である。



ええーっ!? こんなところで「取材」してるんですか!?

会議室でも応接室でもなく、みんなが働いているスペースの一角で、雑談の延長みたいな空間で、話をきいている。親戚のおじさんか、村の長老の話に耳を傾けるように、車座になってきいている。画面の(視界の)端には淡々と仕事をしている同僚の姿も映っている。まったく「構える」ことのない空間で、このインタビューはおこなわれていたのだ。

もし、このインタビューが和室で(ほぼ日には和室がある)、早野さんに着物を着ていただいたうえで(早野さんの正装はお着物である)おこなわれていたら、もっと構えたお話になっていただろう。それはそれでおもしろいし大切なんだけれど、今回の目的は違う。歌舞伎という伝統芸能に怯えている読者やわたし(スガノさん)に、そのおもしろさやいい意味での軽さを知ってもらうのが、今回のコンテンツの目的だ。だったら、こっちが構えてもいけないし、早野さんに構えさせるような場をつくってもいけない。どこまでもカジュアルに、話を伺おう。読者の人たちにも「車座の一員」として、この雑談をたのしんでもらおう。

……そんな「場の設計」を感じさせる1枚だった。

聞き手として、また書き手としてのスガノさんの名人芸っぷりについては、もういちいち「ほら、ここが」なんて採り上げて解説することはしない。それは安易に技として真似ようとすると火傷してしまうような、お人柄、普段からのことばへの向き合い方、他者への敬意、それと隣合わせにある畏れ、そしてツッコミに顕著な短いことばのセンスなど、さまざまな属人的要素によって生まれた名人芸なので、技を真似るのではなく、「在り方にあこがれる」のがぼくらにできるせいぜいだと思っている。

でも、このコンテンツに顕著な「相手を構えさせない場づくり」については、ぼくをはじめとするたくさんのライターさんが意識しておいたほうがいいし、真似のできるところではないかと思う。

余談のように苦言すると、自分の優秀さをアピールしようとするあまりに、相手を構えさせるだけのライターって、ほんとに多いのだ。それは取材される側の立場になって、よくわかった。


で、「安易に真似しちゃいけない」という前提でひとつだけスガノさんの「ほら、ここが」を挙げるなら、このあたりだろうか。

(忠臣蔵がどれほど長く絶え間なく愛されてきたかというお話のあと)

── ‥‥スーパーヒット作ですね。

早野 スーパーヒット作です。
   これね、「独参湯」っていいいます。
   「忠臣蔵は独参湯」

── どくじんとう‥‥?

早野 要するに、漢方の万能薬です。
   すなわち、芝居小屋が経営不振になったらば、
   これさえ演れば必ず経営が盛り返すという‥‥

── 特効薬。

早野 それほどの超有名、超人気作。
   そのことを、みなさんが
   よく知らないわけですよ。

── 知らない。もったいない。
   くやしい。
   独参湯は気になります。

早野 でしょ?
   いったい忠臣蔵の何がそんなに
   独参湯なのか、と思うでしょう。

── 知りたいです。

第2回「スーパーヒット作。」より

こうして、リズムよく佳境に突入していったところで第2回はぷつりと終わり、「明日につづきます」の文言が入る。

もー! 早くおしえてー! である。

(ごめんね〜)


表情が見え、声が聞こえるインタビューを。

ぼくは、おもしろい取材原稿の鍵は「話の内容=情報」だけではなく、その話が交わされた「場の雰囲気」をいかに再現できるか、だと思っている。

たとえば、笑顔の写真を挿入することなく、さらには語尾に(笑)の記号を用いることもなく、なんだか「場のたのしさ」が伝わってくるような原稿。そこにいる人たちの笑顔が透けて見え、豪快な笑い声が聞こえてくるような原稿。もしもそういうものが書けたなら、それは「おもしろい原稿」に決まっている。困った顔でも、真剣に考え込む顔でも、キラキラ目を輝かせる顔でもなんでもいい。その人だけの表情が見え、声が聞こえる原稿が「おもしろい原稿」のおおきな条件だ(今回の早野さんも、じつにたのしそうだし、歌舞伎のなかから飛び出してきたような江戸前のリズムに理科系のアクセントが加わった、まさに「早野さんの声」が再現されている)。

そして取材という非日常な「場」をおもしろくするのは、取材者(ライターや編集者)の役割である。

冗談を言って笑わせるのでもなく、歯の浮くようなお世辞を並べ立てるのでもなく、あるいは安易な「ゲス話」に流されるのでもなく、ほんとうの好意と好奇心と敬意をもって、対面する。相手を緊張させたり構えさせることなく、「ああ、この人はわたしの話をほんとうにわかってくれている。ほんとうに知りたいと思ってくれている」の安心をもってもらう。取材であることを忘れ、日常と非日常の境界線を溶かしてもらう。むかしからの友だちや、ようやく現れた理解者と話しているような「場」をめざす。


こういう、尊敬する方々のいいお仕事に触れるたび、背筋がすっと伸びる。自分のまだまだっぷりを自覚する。そして無料で、思いがけないタイミングで、そういう機会が得られるのだから、やっぱりインターネットはすごい場所だし、大好きでいるしかない場所なのだ。

明日からもまた、がんばろう。

※ 今回の写真およびタイトル画像については、ほぼ日さんから許諾いただいたうえで転載しています。