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春とはたぶん、おすそわけ。

週末、上京した両親と一緒に東京めぐりをした。

きょうは少し冷えてきたけれど、土日の東京は汗ばむくらいのぽかぽかで、こりゃ一年でいちばん気持ちのいい週末じゃないか、と思えるほどの土曜と日曜だった。

先週話題になった「令和」の歌じゃないけれど、いにしえより人びとは春の訪れを祝い、歌に詠んだり、絵に描いたり、あるいは花見などの宴を開いたりする。きのうもたくさんの花見客と遭遇したし、さくらの花を愛でながら酒を飲む人びとは一様にご機嫌だった。のびとびとあかるく、いかにも元気だった。

けれども春の生命力ということでいえば、やはり人間には限界がある。というか、動物や草花にはかなわない。

たとえば長い冬をくぐりぬけ、青々とした新芽とともに満開の花を咲かせるさくらの木。ぼくら人間にとっての春は、せいぜい「あたたかくなったな」「もうコートも要らない、気持ちのいい陽気だな」くらいでしかないのだけれど、彼らにとっての春は生殖の季節である。「よっしゃあ、春じゃあー。子づくりするぞぉー!」のあらわれとして、あの満開の花がある。

春から初夏くらいにかけて巣づくり・産卵・子育てをするツバメなども同様で、彼らにとっての春もやはり「よっしゃあ、春じゃあー。子づくりするぞぉー!」の季節なのだ。冬眠から覚めたクマもきっと「よっしゃあ、春じゃあー。おなごはどこじゃあー」なんだろうし。

一方、わかりやすい繁殖期・発情期を持たない人間たちは、動物や植物ほど本能的に春を謳歌することなく、人間らしい情感の部分で四季のうつろいを味わっているつもりだったりする。


ぼくらが春にとくべつなうれしさを感じてしまうのは、動物たちや植物たちが放つ、生命そのもののよろこび——生殖のよろこび——をおすそわけしてもらっているからなのだろう。