その消しゴムを消してしまえ。

弘法筆を選ばず、ということばがある。

書の達人である弘法大師さま、すなわち空海上人は筆を選ぶことなどしない。いかに粗悪な筆をもって書いたとしても、達筆であらせられる。転じて、ほんとうに優れた人は、劣悪な環境下でもしっかり結果を出すものだ、道具や環境のせいじゃないんだ的なことわざとして、たぶん使われているのだろう。一方で空海上人には「弘法も筆の誤り」ということわざもあり、日常生活における使い勝手のよさでは、こちらに軍配が上がると思われる。


そしてきょう書きたかった話は前者、「弘法筆を選ばず」のほうだ。

最近ぼくは万年筆を多用するようになった。モンブランあたりの高級万年筆を「大人の逸品」などと称して撫で愛でるような使い方ではなく、もっと安価でカジュアルなLAMYのSafariとかStudioとかをガシガシ使っている。最近では推敲・添削時の筆記具まで、赤インクの万年筆にしてしまったくらいだ。


少し前までぼくは、推敲や添削、その他さまざまのメモには、フリクションのボールペンを使っていた。こすれば消える、パイロット社製の魔法のボールペンである。もう、パイロット社の人たちはおれのためにこいつを発明してくれたんじゃないかというくらい気に入って、発売以来ずっと使い倒してきた。たぶんうちの会社には、フリクションのボールペンが30本くらいある。替え芯のストックは200本くらいある。それほど愛したフィリクションだった。

ところが「間違ってもいい」「いつでも消せる」を前提に書かれることばたちは、知らず知らずのうちに軽くなる。考える作業をサボらせ、記憶の固定化をサボらせ、どこか地に足のつかない断片として、ただそこにあやふやなインクを残す。これはぼくだけの話かもしれないけれど、ぼんやりながらそう気づけたのは、幸運だった。

いまぼくは、決して消すことのできない万年筆でメモをとっている。推敲や添削をしている。フリクションがほしいなあ、3色ボールペンがほしいなあ、とも思うけれど、しばらくは万年筆でカリカリ書いていくつもりだ。なんというかそのインクには、書き損じも含め「ライブ」の名残があるのだ。

鬼にカネボウ。
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古賀史健