わかったつもりと自問自答。

きょうで note の更新が500本目になるのだそうだ。

おととしの1月、会社の設立から書きはじめて2年強。休日の更新はほとんどしていないとはいえ、飽きっぽい自分がよく続けられたもんだなあ、と思う。公私ともにいろいろあって、こんなの書いてる場合じゃない日だってたくさんあっただろうに、と。

いま、いちばん実感しているのは「1年で辞めなくてよかった」だ。

もともとこの note は「最低でも1年間続ける」という個人的な目標のもと、はじめたものだった。1年間書き続けた先にどうなるのかはわからないけど、ひとまずは1年間、なんとかどうにか走りきる。話はそれからだ。そんなふうに考えていた。

だから1年経ったとき、なんとなくの達成感はあった。

口先だけで終わらなかったこと。とりあえずは「ぼくも1年続けてみました」と言えるようになったこと。薄っぺらいなりに1年ぶんのアーカイブがたまったこと。それは決して過小評価するべきものではない。

けれども去年の1月に「どうにか1年間続けたんで、このあたりで辞めます」としてたら、ロクなことにならなかっただろうと思う。毎日書くということについて、中途半端に「わかったつもり」になり、わかった人として、偉そうなことを言ったり書いたりしていたかもしれない自分を想像すると、まあうんざりする。


人は一度「わかったつもり」にならないと、その対象についてなにかを語ることはできない。どんなピント外れの珍説であれ、それが「わかったつもり」で語られることばだからこそ、人は耳を傾ける。「わかったつもり」は、なにかを語ることの大前提である。

一方、そんな自分の「わかったつもり」に対して「おれは間違っているんじゃないか?」「もっといい答えがあるんじゃないか?」の問いがなくなってしまったら、たぶんその人は終わる。思考停止ということばの本質は「自問自答の停止」だ。知的好奇心ということばの本質は「おれは間違っているんじゃないか?」だ。自分を疑えなくなった人ほど、魅力に欠ける人はいない。


毎日なにかを書いていると、自分の「わかったつもり」にたくさん出会い、そこへの「自問自答」を余儀なくされる。自分なりの大きな気づきや発見をことばにし、ことばにしたことによってその不完全さを疑い、もう少し先まで考えを進めるきっかけを手にすることができる。


……と書いてるこれも典型的な「わかったつもり」であって、たぶんこれから何十回・何百回と書いていくなかでたくさんの「そうじゃない」とか「ほんとはこうだ」とかに出会うんでしょう。

今日が500回目だとしたら、せめて1000回や2000回は続けないと、ずっと「わかったつもり」のままでしょうね。

今年も毎日書いていくつもりです。

馬の耳に壇蜜。
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古賀史健

ライター。バトンズ代表。著書「嫌われる勇気」「古賀史健がまとめた糸井重里のこと。」「20歳の自分に受けさせたい文章講義」など。週日更新しています。http://www.batons.jp
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