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書き手に思いをめぐらせる。

「あれ」も誰かが書いている。

いつくらいだったでしょうか、あるときふとその事実に気づき、吃驚したときのことを憶えています。スーパーのチラシも、目薬の説明書も、道案内の看板も、すべての文字は、どこかの誰かが書いている。考え抜いて書いたのか、鼻のひとつもほじりながら書いたのか、なにかを書き写すようにして書いたのかはともかく、どこかの誰かが書いている。それをしたためた誰かのわずかながらの「念」が、あらゆる文字に混じってる。

こりゃあ大変だぞ、と頭がくらくらしました。

たとえば住宅街の月極駐車場に、手書きの「大小便禁ズ」という、呪詛めいた看板が立っているとします。そこで「ここのオーナーは、なにを考えてこんな文言の看板を立てたのだろう?」と考える。あるいはもう一歩進んで「なにを考えなかった結果、この看板に至ったのだろう?」と考える。

自分のこころに引っかかったことばについて、その書き手が「考えたこと」と「考えなかったこと」の両方を想像してみる。推論を立ててみる。レストランのメニューでも、メルマガの登録案内文でも、ATMの操作画面でもなんでもいいので書き手を想像し、その人が考えたことと考えなかったことの両方に思いをめぐらせる。

そうやって街を歩き、文字という文字を眺めていると、三次元の風景が四次元にも五次元にもデコボコ化しておもしろいです。