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どうしても消したかった「おれ」。

ライターになってからの数年間、「おれ」が邪魔だった。

なにを書いても原稿から「おれ」の匂いがする。どうにも田舎っぽい、いかにも手づくり感の漂う、つまりは素人くささの抜けない、洗練とはほど遠い原稿ばかりを書いていた。署名記事でもなく、「おれ」を読みたがっている読者など皆無であるゆえ、「おれ」の匂いがただただ邪魔だった。まわりの人がどんなに褒めてくれても、自分にはわかる「おれ」の匂いだ。

経験を重ねるにつれ、少しずつ「おれ」は消えていった。洗練されているとは言いがたいものの、媒体やテーマ、対象読者層にあわせて「〇〇風」の原稿を書き分けられるようになっていった。お堅いビジネス誌、どこまでも軽薄な情報誌、あるいは女性誌、男性誌、およそ同一人物とは思えないような原稿を、器用に書き分けていった。

そのうち中堅クラスのキャリアに差しかかり、いよいよ「〇〇風」ではない「おれ」の原稿を求められるようになった。なにも演じず、なにも隠さず、自分の思うとおりにのびのびと書ける場が、与えられた。


するとまあ、見事に「おれ」がいないのである。

あんなに消したかった「おれ」が、あれほど力ずくで蓋をしてきた「おれ」が、書いても書いても見当たらず、探しても探しても行方しらずなのである。いやあ、これはほんとうにおどろいた。

おかげで当時書いたいくつかの原稿は、無理やり「おれ」を出そうとして、結果よくわからないペルソナを演じるものになっている。架空の「おれ風」をなぞった、じつに恥ずかしい原稿になっている。


いまぼくは、自分の原稿を書くときでも、対談やインタビューをまとめるときでも、あるいは聞き書きをするときでも、たぶん同じ姿勢で書いている。「おれ」を出そうとか引っ込めようとか、なにも考えずに書いている。


さて。

以上の文中、カギカッコでくくった「おれ」は、すべて「個性」に変換可能だ。ほかの仕事のことはわからないけれど、ライターとして食べていくためにはまず、余計な「個性」を消す努力が必要になる。そこで自分がこだわっている「個性」とは、読者にとってはただのノイズであり、アマチュア臭であり、野暮ったさでしかない。フリーハンドで線を引くのは、ちゃんと定規で直線を引けるようになった先の話だ。

一方、ある程度の実力や実績が認められ、「さあ、あなたの『個性』を存分に出してください」と言われたとき、そこでありもしない「個性」を出そうとするのも、おおきく間違った考えだ。

個性とは、つまり「おれ」とは、演出したり増幅したりするものではなく、ただただ「どうしようもなく、にじみ出るもの」なのだ。「おれらしさ」の演出を図った原稿にほんとうの「おれ」はおらず、なんでもなくフラットに書いた原稿のなかにこそ「おれ」が宿る。

次に出す文章本では、このあたりをもう少し整理して書いていきたい。