その煙草はなぜ揉み消されるのか。

あれをやっててほんとによかったな、と振り返って思うことのひとつに、映画の監督と編集がある。

学生のころ、自主製作の映画をつくった。そもそも映画監督になりたくて芸術大学に進んだ人間だ。いま、映画とまったく無縁の仕事に就いているのは、映画の才能がてんでなかったこと、自主製作映画が大失敗に終わったことの証左にすぎない。

けれども自分なりに映画を勉強し、モンタージュ理論にはじまる映画の文法を理解し、実際に監督と編集をやってみて気づいたことは山のようにあるし、ライターの仕事をすすめる上でも大いに役に立っている。


たとえば、こんなシーンがあったとしよう。


ある男が書斎の椅子に腰掛け、煙草を喫っている。

電話が鳴り、男は受話器を取る。

受話器の向こうの人物と短いやりとりを終え、静かに受話器を切る。

煙草を灰皿にもみ消し、コートを羽織る。

黙って書斎を出て行く。


このとき、「煙草をもみ消す」というカットを入れるかどうかは、監督の裁量にゆだねられる。

書斎にいたこと、電話が鳴ったこと、電話中の表情、コートが必要な季節であること、などは物語の理解と進行に必要な情報だが、別に「煙草をもみ消す」という絵を明示しなくても、物語の進行上なんの問題もない。むしろ入れないほうがスムーズでさえある。

けれども、そういうカットの入っている映画は、たくさんある。時間にすれば2秒や3秒かもしれないが、映画にとっての2秒や3秒は(ましてや商業映画の場合はとくに)ぜんぜんバカにできない時間だ。すべてのカットには意味があり、理由がある。

もしかしたら、ぐしゃりと押しつぶされた煙草のフォルムに、男の「怒り」を重ねているのかもしれない。あるいは「燃えている火を消す」という象徴的な行為のなかに、高ぶる感情を静めようとする男の心を投影しているのかもしれない。オンとオフのスイッチを切り換える道具として、煙草を用意したのかもしれない。

どれが正解なのかはわからないにせよ、こうして映画を通じて「それが、ここにある理由」を考えるクセがついたことは、本を読んだり原稿を書いたりする上でも貴重な財産になった。

「それが、ここにある理由」をいちいち考える習慣がついてくると、今度はいろんな場所で「それが、ここにない理由」を考えられるようになる。俗にいう「行間を読む」ことの意味や方法が、具体的にわかってくる。


映画やテレビの編集理論が学べる本って、いわゆる「文章読本」よりもずっと役立つと思うんだよなあ。いまのところハリウッド文化圏からの輸入ものが多いけど、いつかつくってみたいジャンルのひとつです。

壁に耳ありジョージとメアリー。
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古賀史健

コメント1件

映画のワンシーンにも色んなこだわりがあるんですね
そんなところまで感じとりながら映画みたいです
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