モブキャラとしてのぼくたち
マンガや映画の世界に、「モブキャラ」という言葉があります。
大コマの背景に描かれるような群衆、通行人、名もなき人々、あるいはザコ。そういう有象無象の人々を指す言葉です。
このモブ(mob)という言葉、マンガや映画から離れた社会学なんかのフィールドではモッブと呼ばれ、単なる群衆というよりは、乱衆、暴衆、暴徒たち、みたいな意味合いで使われる言葉です。
それで最近、インターネット上の炎上騒ぎって、「モブキャラに対するモッブたちの騒乱」みたいなものなのかなあ、と思っています。
マンガや映画のなかで、モブキャラが大量死しても、良心はまったく痛みません。むしろヒャッハー、汚物は消毒だー。です。
で、たぶん誰かネット上で格好の標的を見つけて総攻撃するような人たちも、相手のことをモブキャラと見なしてるんだと思うんですね。その人に何年何十年の人生があり、家族があり、日々の生活があり、体温やら頭のかゆみやらがある、ぼくらと同じ人間だということを忘れ、インターネット空間の1コマに映り込んだモブキャラと見なしている。だからヒャッハー、汚物は消毒だー、となる。
しかもそうやってヒャッハーしてる自分自身、乱衆としての「モッブ」になっている。そんな「モッブがモブをヒャッハーしてる」構図が、炎上騒ぎの厄介なところなのかと思います。
それで、インターネット(とくにSNS)に籍を置く以上、なかなか「脱モブキャラ化」はむずかしい。実名を基本としたFacebookでさえ、モブキャラ化をまぬがれえない。
だから、手間を惜しまず「会う」ことの価値、これからますます高まってくるよなあ、と思います。会いましょう、みなさん。ぼくもこの仕事が片づいたらいろんな人に会いたいっすよ。