自分のあたまと自分のことば。

むかし書いた話を、もう一度する。

たくさんのことを知っている人は、「あたまがいい」と言われる。いろんなところで仕入れた情報を、必要に応じて適時取り出せる人——返す刀の切れ味にすぐれた人——は、「切れもの」だと言われる。どちらもぼくには欠落した能力であり、そういう人を見ると純粋にすごいなあと思う。

でもなあ。

最近よく思うのだけど、たぶんぼくは「そういうあたまのよさ」や「そういう切れ味の鋭さ」が必要とされていない場所で、はたらいている。もっと言うと、「そういうあたまのよさ」がまったく通用せず、1ミリも役に立たない場所で、はたらいている。

「自分のあたまで考えろ」は、よく言われる話だ。しかし、誰だって他人のあたまを借りているわけはなく、みんな自分のあたまでものごとを考え、それぞれに行動している。

だとすれば。

大切なのはそれが「自分のあたま」であるかどうかではなく、「考える」という行為の内実ではないのか。


ぼくが大切にしているのは、それが「自分のことば」で考えられたものなのか、という点だ。

人は、その対象を「自分のことば」で整理検証し、「自分のことば」に翻訳しながらアウトプットする過程においてようやく、ほんとうの「考える」に至る。借りもののことばで考えているうちは、思いも答えもみな借りもののままに終わる。大切なのは「自分のあたまで考える」ではなく、「自分のことばで考える」なのだ。

ぼくが尊敬する人はみな、自分のことばで考えている。借りもののことばを退け、自分のことばを生み出す。「考える」とは、そういうことなのだ。

教祖猫を噛む。
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古賀史健

古賀史健(2018)

古賀史健の note、2018年分です。
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コメント1件

自分の言葉で考えようとしても、つい借り物の言葉に頼ってしまうことがあります。いい事例を見つけると、嬉々として食いついてしまうことが。借り物の言葉を吐き出し尽くしてようやく、自分の言葉が出てくるんじゃないかと僕は考えています。
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