真夜中のラブレター問題

真夜中のラブレター問題、と呼ばれるものがある。

誰もいない真夜中にしたためたラブレターは、そのまま投函するのではなく、朝方もう一回読みなおしたほうがいいよ、きっと顔から火が出るよ、ゴミ箱にそれがあることさえ恥ずかしく、いますぐマッチで火を点けてこの世から消し去りたくなるよ。という、自己の陶酔を戒めることばだ。

これはラブレターにかぎった話ではなく、なんというか「語り」全般に通じる話なのだと思う。アルコールの勢いで「語り」はじめる人。部下のミスを注意していたはずが「語り」に転じる人。SNSのタイムラインに刺激され、なんだか「語り」を投げる人。きっとこのなかには、真夜中のラブレターみたいに「翌朝に読み返す」のステップがあれば、発せられなかったことばもあるはずだ。というか、ぼくの場合は完全にそうだ。

では、「語り」のなにが恥ずかしいんだろう?

真夜中のラブレターだって、酒にまかせた「語り」だって、なにも嘘を並べているわけじゃない。そりゃ少しはカッコつけて、気障なことばを使っていることはあるだろうけど、ぜんぶがぜんぶ等身大のことばでしゃべれるほどぼくらは強くもかしこくもない。

けっきょく「語り」の恥ずかしさとは、「有言不実行」の恥ずかしさではないだろうか。できもしないことを声高に語ってみせ、やりもしないことを朗々と宣言し、やってもいないことをできているかのようにしゃべる。

そして真夜中のラブレター的なものを恥じない人、それをロマンチストと呼ぶのかナルシストと呼ぶのかわからないけどそういう人は、きっと「有言」することと「実行」することを、切り離して考えられるのだろう。それはそれで、ものすごく強い。

ただ、ライターであり編集者でもあるぼくとしては「おおきいことを言ってる人」よりも、「ちいさいことをやってる人」を信じたいし、「ちいさいことをやってる自分」でありたいなあと思っている。

壁に耳ありジョージとメアリー。
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古賀史健

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