そのテクニックは「癖」ではないのか。

テクニック、と呼ばれるものがある。

「技術」とそれを訳せばテクノロジーとの語弊が生じてしまうので、おそらくは「技巧」。けれども「技巧」だとアート的な、創作手法的な色彩が濃くなってしまうので、やっぱりカタカナの「テクニック」。仕事から趣味、さらにはコミュニケーション全般におけるまで、さまざまなところにテクニックは存在する。営業・販売のテクニックなどはよく語られるところだし、創作上のテクニックもいろいろあるだろうし、恋愛テクニックなるものだってきっとある。

人に請われてぼくも、文章テクニックなんかをテーマにお話しさせていただく機会がたまにある。すると、あたかもマニュアルめいた幾つかのルールがそこに存在するような、汎用可能にして永久不変の絶対的法則がそこにあるような、そんな錯覚におちいってしまうことが、ときどきある。

たしかに(野球の)ピッチングに「カーブの握りかた」や「フォークボールの握りかた」があるように、最低限の共通ルールというか、技巧以前の「ここからはじめよう」はあるのだろう。

けれども世間でテクニックとして語られていることの多くは、少なくともぼくがしたり顔で語っているテクニックの大半は、いろいろ言ったところで「癖」の延長にすぎないんじゃないかと思うのだ。

しかもタチの悪いことにそこでの「癖」のいくつかは、「困ったとき、無意識のうちにそれに頼って逃げてしまうもの」にすぎず、それをテクニックなのだと居直るのは、かなり危険なことのように最近感じている。


癖としてのテクニックが一概に悪いものだとは思わないけれど、せめてそれを使っている自分(そこに逃げている自分)には自覚的でありたいし、その癖に頼らずとも表現できる道を見出すまで考えるようにしなきゃなあ。

じゃないと、そこでの「うまくなった」は、ほとんど「ズルくなった」と同義なのだ。

馬の耳に壇蜜。
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古賀史健

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