安い仕事にしないために。

今年のはじめくらいから躊躇していたこと、具体的には「いま書くと、火中の栗を拾っちゃうことになるんだろうなあ。それはいやだなあ」と躊躇していたことについて、書いてみたいと思います。


「なぜこの note を無料で続けるのか?」のお話です。


前提として、たくさんのクリエイターがじぶんの作品を自由に発表し、自由に値付けし、そこから収入を得ることができる、という note の思想はすばらしいものだと思っています。note のことはこれからも応援したいし、この場がもっともっとたくさんの人に知られ、利用されていくことを願っています。


でも、少なくともぼく個人はずっと無料のまま続けていくだろうなあ、と思うんですね。

たとえばぼくが、ここに書いてる日々の書きものを有料記事にする。そんなに役立つ話でもおもしろい話でもないし、ということで仮に月額300円に設定する。1日10円だったら、かばんのなかでなくしちゃうくらいの、実質的な負担を感じないくらいの金額だろうと、そのへんで設定する。そしてどうなんでしょう、いまフォローしてくださっているのが3000名ちょっとなので、その100分の1あたり、ちょうど30名くらいの方が登録してくださるとする。

お金をいただくからには仕事です。

そして仕事としての「これ」に、(300円×30名で)月9000円という値段がつくことになります。おそらく、ふつうに働く社会人であれば、「安い仕事だなあ」と思うでしょう。毎日書いて、たったの9000円かよ、1万円にもなんないのかよ、と。

そこで、これを「安い仕事」にしないためにどうするかといえば、たぶん定価を上げるんですよね。月額800円に値上げして、仮に購読者が10人減っても月の売上は1万6000円だ。こっちのほうが儲かるじゃないか、と。


でも、でも、でもね。

たった20人にしか届かない、月1万6000円の仕事に、いったいどれだけのよろこびがあるのか。じぶんはそれを「ノルマになった、安い仕事」と見なさないか。毎日書いていくことが苦痛にならないか。もっとでかいお金の動く仕事に、よだれをたらさないか。

値段って、つけた途端に「安い、高い」の軸だけで判断してしまう、ものすごくおそろしいものなんです。もうモノの値段だって、サービスの値段だって、あるいは「じぶんという労働者」の値段(年収)だって、なんでもそう。

これ、マルがいっこ増えて「200人に届く、月16万円の仕事」になったとしても、ぼくの気持ちはあんまり変わらない気がします。


……と、ここまで書いて気がついたけど、これってぼくがずーっとフリーランスで仕事してきたからそう思うのかなあ。

1000万円ほしけりゃ1000万円ぶん働け、誰もジャマしねえぞ。ってのがフリーランスの基本ですからね。ましてやぼくは印税というギャンブルめいたシステムのなかで生きてきたので。あとは単に、これ以上「仕事」を増やしたくないのかもしれません。

ただ、送り手側にある「無料だから得られるもの」の正体については、もっともっと真剣に考えてみるべきだと思うんですよね。

教祖猫を噛む。
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古賀史健

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コメント2件

古賀さんご自身の「仕事」の定義を再考なされてみていはいかがでしょうか?

アドラーの共同体感覚と結びつくかどうかはわかりませんが、昔の(日本の)共同体では「仕事」と「稼ぎ」は別の概念でした。共同体を維持するための労働は「仕事」。お金を稼ぐ労働が「稼ぎ」。

今は「稼ぎ」=「仕事」ですよね。
そうなって、(日本の)共同体感覚は失われてしまいました。
無料でも有料でもおなじ内容なら、どっちがうれしいかだけですもんね。
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