書きはじめたことを書いてみる。

いろいろあってようやく、書きはじめた。

きょうの note ではなく、仮タイトルを『ライターの教科書』としている本の原稿である。書いていて、素直にたのしいなあ、と思う。いや、たのしいというよりも、うれしいのほうが近いかもしれない。おなかの空いた人がごはんを食べるように、眠くなった人があたたかい布団にもぐり込むように、なんの迷いもなく一直線に書いている実感がある。

どなたかにインタビューした内容を原稿にまとめるとき、また書評や映画評などをまとめるときは、こうはいかない。

そこでは対象(インタビューイまたは作品)への敬意と畏れとが常にあり、自分は核心をつかまえきれているのだろうか、壮大な誤解をやらかしているんじゃないかという迷いが、ずっとつきまとう。

そんな緊張感がたのしかったり、核にあるものをつかむまでのスリルは、他では得がたいものなのだけど、やはりそれも不安と背中合わせの興奮だ。誰かのことばや思いを預かることは、対象に真摯であろうとするほど、こちらの神経をすり減らす。

一方、コラムやエッセイを書くのもまた、たのしいばかりではないだろう。はたして「これ」はおもしろいのだろうか、つまり「おれ」はおもしろいのだろうか、という不安はどこまでも消えてくれないものだ。


いま取り組んでいる本(ライターの教科書)が気持ちいいのは、コンセプトに拠るところがおおきい。

「ぼくが文章の学校をつくるとしたら、こんな教科書がほしい」。

ある意味、この教科書をもっとも切実に待ちわびている読者は「いつか学校をつくるかもしれないおれ」なのだ。他の誰でもない「おれ」が、「この教科書さえあれば最高の学校ができるぞ」と思える本になっていれば、それで目的の半分は達成できているのだ。こういう本づくりは過去に経験がなく、あえて挙げるなら『嫌われる勇気』のときに近いのかもしれない。


そうそう。きのうひとつ、おおきなアイディアを思いついた。

近日中に柿内芳文氏と話し合って、それが安易な思いつきなのか、すばらしいアイディアなのか、見極めていきたい。

教祖猫を噛む。
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古賀史健

古賀史健(2018)

古賀史健の note、2018年分です。
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