くだらない大人、つまらない大人

最近お引越をされたばかりの敏腕編集者Yさんと、取材帰りにおそばを食べた昨日のこと。「引越先、どうですか?」と聞いたところ、こんな答えが返ってきました。

「いやぁ、ちょうどいいお店がなくて困ったんですよねえ」

ちょうどいいお店とはなにか? 格別うまくなくてもいい。食べログの星がいくつあるとか、そんなものはどうでもいい。ただ、ひとりで気軽に入れて落ちつける、ひっそりとしたおそば屋さん。あるいは飲み屋さん。話を聞くと、そういうことのようです。

わかるなあ、近所にそういうのほしいよねえ。と納得しつつ「そういえばあれもそうだぞ」と思い出したのが、ツイッターでした。すなわち、ぼくが自分のタイムラインに求めているのも「ちょうどいい言葉」なんだろうな、と。

自信満々につぶやかれる「格言めいたもの」。かしこそうに背伸びした「評論めいたもの」。そういうのは、もういいんです。もっと生活の匂いがする、それこそ家族経営のおそば屋さんみたいな言葉がほしいんです。目にやさしく、耳にやさしく、こころにやさしい、くだらない言葉が。

ただねー、くだらない人間であることって、けっこうむずかしいんですよ。

まず、仲間内での「くだらねー」って、最大級のほめ言葉なんですよね。これはもう、大前提とさせてください。ところが、「くだらねー」のすぐ隣には、「つまんねー」というゲームオーバー級の評価が口を開けて待っていて。いわゆる駄洒落なんかはその代表格で、よほどうまいこと「くだらねー」に落とし込まないと、すぐさま「つまんねー」になってしまうわけです。オヤジギャグとかなんとか。

だからぼくらは、初対面の人にはなかなか「くだらないこと」が言えません。ついつい「無難なこと」や「かしこそうなこと」でガードを固めます。そしてある程度なかよくなってようやく、アルコールの勢いでも借りて「くだらないこと」にチャレンジできるわけです。ここまでくれば「つまんねーやつ」のそしりも受けまい、との安心感があるから。うん、そうだそうだ。「くだらないこと」って、親密のサインであり、こころの開放度を示す指標なんですよね。

だとすれば、ですよ。

ぼくがタイムラインに「くだらない言葉」を求めている理由は、気持ちよくこころを開いた人による「親密」を求めている、ってことなのかもしれません。

なーるほどなー。書きはじめてみたらぜんぜん違った方向に脱線して、考えてもなかった結論になりました。くだらない大人ではありたいけど、つまらない大人にだけは、なりたくないなあ。

教祖猫を噛む。
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古賀史健

creative notes #1

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