本を出すこと、情熱大陸に出ること。

なにかをつくるとき、「○○ではない」は、おおきなヒントになる。

ぼくは普段、おおきなくくりでいうとノンフィクションの本を、もう少しちいさなくくりでいうとビジネス書や実用書と呼ばれる本を、つくっている。おかげで最近まで「フィクションか、ノンフィクションか」という線引きで、自分の仕事を考えていた。「フィクションではないのだから、こうするべき」とか「フィクションと違って、こうあるべき」とか、そんなふうに。

ところがきのう、わかりやすい「○○ではない」に気がついた。

たとえば若手の経営者が、組織のリーダーが、アーティストが、なにかしらの本を出版する。このとき胸にとめておくべき指針は「これは『情熱大陸』ではない」なのだ、たぶん。


本は商品である。こんなおもしろい人がいる、と紹介するだけでは本にならない。読者の支払う対価に見合うだけのメリット(学び、もっといえば実利)がなければ、それは商品として成立しない。おもしろい人の奮闘ぶりを紹介し、すごいなあ、えらいなあ、おれもがんばろう、だけで終わらせるのだったら、たぶん本にする意味がない。『情熱大陸』にかなわないのはもちろん、ブログのほうがいい場合もある。

本はメッセージであり、手紙である。過程の記録それ自体がコンテンツとなる『情熱大陸』やその他の人物ドキュメンタリーと違い、少なくとも自著であれば、そこにはメッセージが必要になる。「伝えたいこと」は、わたしのなかにあるのであって、わたしという存在そのものではない。

おもしろい活動をしている人を見つけたとき、多くの編集者は「この人を本にできないか」と考える。それはとても大切なことだし、編集者はそのために存在するといっても過言ではない。けれども、自分が『情熱大陸』の目で見ているのか、あるいは商品であり手紙である「本」の目で見ているのか、いま一度立ち止まって考えるべきだろう。これは、自著を出したいと考えている方々も同様である。自分が『情熱大陸』に出演したい感覚で自著を出したいと願っているのか、それとも商品としての手紙を出したいと願っているのか、その手紙にはなにを書くのか、自分になにが書けるのか、担当編集者としっかり話し合っていくべきだろう。


それでいうと、著者としてのぼくは『情熱大陸』的なものへのあこがれは皆無だけど、手紙への「書けるかもしれない」「書くべきかもしれない」は、ちいさいながらも確実にあるなあ。

桃栗三年、カキうまいねん。
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古賀史健

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