ストーリーとは何かについて考える。

ほんと慣用句ってのは厄介なものです。

きのう編集者さんとの打ち合わせの中で、ほんの少しだけ「ストーリーとはなにか?」のところに話がおよびました。これはぼく自身ずっと考えてきたテーマでもあるし、以前とは大きく考えが変わったところでもあるから、いつかのときのために文章として書いておきたいと思います。来年なのか再来年とかなのか、このへんをまるっと一冊の本にまとめようと思うので。

小説でもマンガでも映画でも、ストーリーはたいせつです。たぶん、普段ぼくが書いているようなビジネス書とかノンフィクションとかの世界でも。でも、ストーリーの本質というか、その中心にあるものについて考える機会は、意外と少ないのではないでしょうか。少なくともぼくはそうでした。日常生活の中では、あらすじの同義語のようにして使っていますが、「ストーリーの本質とはなにか?」に関していうと、以前のぼくは漠然と「山あり谷あり」みたいな姿をイメージしていました。

その源泉はたぶん「起伏に富んだストーリー」という慣用句。

ストーリーとは起伏に富んでいるべきなのだ、ストーリーの本質は「起伏」なのだと、無意識のうちに思っていたわけです。チャンスが訪れ、ピンチに見舞われ、大きな壁を乗り越えたかと思ったらまた窮地に立たされ。そういう起伏こそがストーリーの本質であり、本の中にも起伏をつくるべきなのだ。

ところが、そうやってエキサイトバイク的な「起伏」の設計に躍起になっていると、おかしなことに気がつきます。桃太郎が鬼退治に行くようなフィクションの世界であれば、起伏の設計もいいだろう。起伏は大切な要素だろう。しかし、主人公の不明瞭なノンフィクションの場合、どのように起伏を設計しろと言うのか。誰にチャンスが訪れ、誰がピンチに見舞われ、誰が劇的な勝利をおさめるのか。もしも「著者を主人公とした起伏に富んだストーリー」を描くのなら、それはほとんどフィクションではないか。

いや、そういう本があるのはいいことだし、ぼくも書きたいとは思う。けれども、たとえばぼくがジャレド・ダイアモンドスティーブン・ピンカーの本を読むとき、そこにわかりやすいキャラクター(主人公)はおらず、チャンスもピンチもない。千載一遇の好機、絶体絶命の危機、そんなものはない。にもかかわらず、そこにはストーリーがあり、ハラハラドキドキがある。これはいったいなんなのか。


けっこう長い時間をかけて考えた暫定解、それは「ぶぅおん!」でした。


アクセルペダルが踏まれ、ぶぅおん!と加速する、あの瞬間。あの快感。おもしろい本を読んでいるとき、どこかの場面でぼくは「ぶぅおん!」を感じています。話が一気に加速する、別の次元に突入する、まだ見たことのないどこかに連れていってくれるあの感じ。振り落とされないよう必死でしがみつくあの感じ。ぼくにとってのストーリーの中核とは、「加速と減速」だったのです。

この原稿に「ぶぅおん!」はあるか。アクセルが踏み込まれた瞬間、ぐんっと加速するあの感じはあるか。そして急ブレーキをかけ、周囲をじっくり見渡す時間と心のゆとりはあるか。再びアクセルは踏まれるのか。

ぼくは、ほとんどそこだけを見つめながらストーリーを考えているように思います。わざわざチャンスやらピンチやらの起伏を設けずとも、「ぶぅおん!」があればワクワクは生まれるのだと信じて。むしろ、それこそが人が起伏と呼んでいるものの正体だと信じて。


うーん。まだうまくことばにできてないなあ。ことばにできてないってことは考えが足りてないってことなので、まだまだこのへんはじっくり考えていきたいと思っています。

ともあれ「起伏に富んだストーリー」とか「脱兎のごとく駆け出した」とか、なんかそういう慣用句を使おうとした自分を見つけたら、心のこん棒で存分にこらしめてやらなきゃダメですね。さぼるなっ、考えろっ!って。

椅子の上にも3円。
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古賀史健

意味の図画と言葉の工作、このふたつで僕は文章をつくる

図画とはクリエイティブであり、工作とはエンジニアリングである。実用に資する公的に正しい文章は、伝達と行動を企図した徹底的な他者志向から生まれる。
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