コミュニティのあした。

きのうのnote、たくさんの応援をいただきどうもありがとうございました。

それで最後にちょこっとだけ書いていた、いわゆる「コミュニティ」に関するぼくの所感、せっかくの機会なのでここに残しておこうと思います。今後コンテンツは「プロダクト型」と「コミュニティサービス型」に分かれていく、という話からの続きです。

プロダクト型コンテンツとサービス型コンテンツというと、なんだかいかにも先端的な話のようにも聞こえますが、出版の世界でいうとこれ、完全に「本」と「雑誌」なんですよね。特定のクラスタに向けて、新鮮な情報を、定額課金モデルで毎月・毎週提供する。それはもうずっと昔から雑誌がやってきたことであって、しかも雑誌は何十万部や百万部のレベルで実質的な定額課金モデルを確立していたわけです。

ですからぼくはコミュニティサービス型のコンテンツを、特段あたらしいものだとは思っていません。仮に「古賀史健サロン」のようなものがあったとしても、それは雑誌「月刊古賀史健」の亜流にしかなりえないと、ぼくは思っています。だって、サロンには専任の辣腕編集部員がたくさんいるわけではなく、それを雇ったり育てたりする人材と資本もなく、外部に向かって開かれているわけでもないのですから。

ただ、現実問題として雑誌が売れなくなってきた。一方で「雑誌的な共同体」へのニーズは、変わらず存在する。そのニーズをどうすくい取ればいいかは、誰にもわからない。ただわかっているのは、雑誌と比べてネット発のコミュニティにはあきらかなアドバンテージがあること。それは、コミュニケーションの質と量です。インターネットやSNSという仕組み自体がそうだし、サロン的な場で直接会って話をすることができるメリットは、雑誌時代の「ハガキ投稿」でのコミュニケーションとは速度も質も違います。

そのような前提で考えた場合、コミュニティが「ファンクラブ型」と「スクール型」に収斂されていくのは、過渡期の形態として当然のことだろうと思います。ファンクラブにもスクールにも、濃密なコミュニケーションがあり、参加者にとってのわかりやすい「実利」がありますからね。もしもこれが(全盛期の雑誌のように)実利を超えた「おもしろ」だけを目的に、人が集まるコミュニティができれば、それはすごいことだと思います。

むかし、ある専門誌(当時数十万部の発行部数を誇っていた雑誌)の編集長さんに取材したことがあるのですが、彼は何年かに一度誌面を大幅リニューアルし、古い読者の「卒業」を促すのだとおっしゃっていました。そうしないと専門誌のコミュニティは閉鎖的な「村」になってしまって、あたらしい読者が入ってこなくなる。あたらしい編集部員も育たず、やがて雑誌全体が小言めいた年寄りの集まりになって衰退の一途をたどる。だから誌面のリニューアルと「いまさらその話?」的な内容のローコンテクスト化で、雑誌全体にあたらしい風を入れるのだと。

たしかにマンガ誌でも、好きだった連載がどんどん完結して「気がついたらおれ、『こち亀』しか読んでねえぞ」みたいな状態になったところで少年ジャンプを卒業し、スピリッツだのヤンマガだの、ヤングサンデーだの、次の雑誌に移っていった記憶があります。いわゆる(いま話題になっている)コミュニティビジネスの存続も、そのへんの「古いファンを捨てる覚悟」にかかっているんじゃないかと思います。

と、そんな浅読みまじりに「ぼくだったらどうするんだろうなあ」と眺めていたコミュニティサービス型のコンテンツ。ぼくとしては、まず「プロダクトとしての教科書」をつくって、そこから自分なりの学校の姿を考えていきたいと思っています。

で、明日からはまた、いつもどおりのだらだら雑記に戻るはずですので、よろしくお願いしますね。

毒を食らわばサラダで。
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古賀史健

古賀史健(2018)

古賀史健の note、2018年分です。
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