再びカキフライを考える。

またカキフライを食べてしまった。

この1週間だけで3度も食べて、その都度しずかにおなかを壊しているカキフライを、また食べてしまった。これまでぼくは、人生のうちで2度だけ——食あたりではない——食中毒を経験しているのだけど、そのひとつはカキフライで、もうひとつがモツ鍋だ。そして生きものとしての学習能力が欠如しているのだろうか、いまでもカキフライが大好きで、モツ鍋も大好物である。カキフライを食べると、十中八九でおなかがしくしく痛くなるにも関わらず、だ。

カキフライの魅力は、おいしさよりもむしろ「価値のわかりやすさ」にある。


たとえば、季節ものという「希少性」。

もしもカキフライが春夏秋冬いつでも提供されるハンバーグのような食べものだったら、たぶんここまで偏愛することはない。ぼくは「カキフライはじめました」の貼り紙とともに冬の到来を知り、師走に向けた気忙しさに辟易し、北風の冷たさに首をすくめ、枯れゆく木の葉をさみしく思いながら、そんな冬にもまた「たのしみ」があることを思い出す。街が色を失い、心が余裕を失い、その年の終わりを痛感させる冬が、さみしいばかりの季節じゃないことを再確認するための道具として、カキフライは存在するのだ。初夏の「冷やし中華はじめました」もうれしいが、初冬の「カキフライはじめました」は、もっとうれしい。


そしてカキフライには「大きさ」というわかりやすいモノサシがある。

同じ揚げもので比較をするなら、とんかつの価値は「おいしさ」にある。あのお店はおいしい、このお肉はおいしい、やっぱりラードで揚げたカツにはかなわないなどと、人はとんかつの味くらべに余念がない。けれども味が勝負ということは、食べてみるまでその価値が判別できないわけだし、そもそも味覚には個人差も激しい。

それに対してカキフライは、おいしさよりも「大きさ」によってその価値が語られる。「わあ、こんなに大きいカキフライ」と、人はのんきにカキフライの大きさだけで歓喜する。そして実際、カキフライを口に運んだときのよろこびも、その大きさによって増減してしまうものだ。どんなに味がよくて高級ブランド的な牡蛎を使ったところで、小さなカキフライはやはりさみしい。おそらく牡蛎養殖業を営む方々も、いかにしてビッグサイズな牡蛎を育てるかに心血を注いでいるのではないかと想像する。


ところが最近、カキフライ業界に由々しき動きが広まっている。

「わあ、こんなに大きいカキフライ」とよろこんだのもつかの間、じつはそれが小さな低級品を2〜3個寄せ集め、その集合体に衣をつけて揚げた、いわば「カキたちフライ」だった、という事案がそこかしこに広まっているのだ。たしかに大きいのだし、食べ応えもある。それと知らずにそのまま食べきってしまいそうなほど、カキたちは見事に合体している。発明した人は、えらい。


でもなあ。それじゃあカキフライの価値を「大きさ」で語ることはできなくなるんだよ。大きければ大きいほど、疑念が膨らんでいくんだよ。価値が減じていくんだよ。


……という行き場のない愚痴を語れるのも、やはり冬のあいだだけなのだ。近々また、ぼくはカキフライを食べるだろう。いや、カキたちフライを。

教祖猫を噛む。
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古賀史健

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