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ことばについて考える

日本語学者の金田一秀穂さんに取材させていただいたとき、「日本語の乱れ」について質問したことがあります。どう思われます? やっぱり正しい日本語を使わないと、いろいろ困りますよねえ、みたいなニュアンスで。

すると金田一さんは、「どうでもいいんじゃないですか」と笑い、はっきりとこう付け加えました。

「ことばとは、時代によって変化するものです。そしてその変化は、誰かが変えようと思って変えられるものではありません。逆に、変えまいとしても、そのままの形にとどまらせることは決してできない。それがことばの本質です」

以来、このことばは、ぼくのなかにどっかりと錨を降ろし、ふわふわした考えが流されていかないよう、その船を支え続けています。日本語の定義としてではなく、世のなか全体のさだめのようなものとして。


ぼくは、自分がある程度大人になってからインターネットの誕生(普及?)に立ち合った世代なので、「ネットがなかったころの世のなか」についても、それなりに覚えています。

そして「ネットができてほんとによかったなあ」と思うことも山のようにある一方、「これは困った流れだよねえ」としか思えないこと、つまりはネットの弊害も、たくさん感じます。いわゆる炎上とか、それに類するものとかね。

でもねえ、これはまさに「誰かが変えようと思って変えられるもの」ではないのだし、「変えまいとしても、そのままの形にとどまらせることは決してできない」ものなんですよ。

いやな世のなかになったなあ、という気持ちから「ネット社会にもの申す!」みたいな憤りの声を上げても、なんにも変わらないと思うんです。そうではなく、「せめてわたしは誠実であろう」と日々を送ること。もしもなにかが変わるとしたら、そういうところからはじまるんじゃないかと思います。

それで、「せめてわたしは誠実であろう」の具体といえば、やっぱりことばになるんじゃないか。普段、どんなことばを使って生きているのか。あるいは、どんなことばを自分に禁じているのか。

ネット社会をながめてきてつくづく思うのは、「ことばは場をつくる」ということです。そしてきっと、「ひとは場によってつくられる」のでしょう。この事実がありありと可視化されたことは、ぼくにとってけっこう大きなネットの恩恵でした。

日本語を守る必要なんか、まったくない。けれども自分のことばは守りたい。そんなふうに思っています。

郷に入ってはひろみに従え。
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古賀史健

ライター。バトンズ代表。著書・共著「嫌われる勇気」「古賀史健がまとめた糸井重里のこと。」「20歳の自分に受けさせたい文章講義」など。週日更新しています。http://www.batons.jp

コメント1件

今日あるツイートを見たら、雰囲気(ふんいき)を「ふいんき」と打っても、変換で正しい漢字が候補として出てくることを知り、ちょうど日本語の乱れについて考えているところでした。
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