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ビートルズを聴くように、本を読む。

以前にツイッターでも書いた話だ。

ロック音楽を真剣に聴きはじめた中学生時代。音楽通とされる人たちが盛んに「あの曲のベースラインが〜」とか「ツェッペリンはジョン・ボーナムのドラムが〜」とか言ってるのを聞きながら、なんのことだかよくわからなかった。スピーカーの前に正座して、聞こえてくるのはボーカルとせいぜいギターリフだけ。その他の音は「その他」としてしか認識できなかった。

くやしくて、くやしくて、ひとつの曲を5回聴くことにした。

まず最初に、普通に聴く。ボーカルを聴き、メロディを追いかけ、ぼんやりとリズムに身をまかせながらギターリフに「うひょー」とか叫ぶ。

続いて、耳を凝らしてギターだけを聴く。ギターの音だけに集中する。ギターが2人いるときは、それぞれに1回ずつ聴く。リズムギターの、それまで聞こえていなかった音が聞こえてくる。

さらにはベースを聴き、ドラムを聴く。束になって鳴り響く音の中からベースを見つけ、それだけに集中するのはなかなか骨の折れる作業だけれども、すぐに見つかるようになるまで自分を鍛え、なんとか聴けるようにする。

そうして各楽器を個別に聴きとれるようになったのち、もういちど「全体」を聴く。すると紛れもない「ビートルズというバンド」を聴きながら、「ジョンとポールとジョージとリンゴ」を聴くような、全体と部分を一緒に聴くような多層的音楽体験ができるようになった。

いまでは大体1回聴けば「全体と部分」を一緒に受け止められる耳になったんじゃないかと思っている。


そしてあるとき、『カラマーゾフの兄弟』もバンドを聴くように読めないか、と思った。普通に読めばアレクセイ(アリョーシャ)を主人公とする物語なのだけど、長男ドミートリイ(ミーチャ)を主人公として1回、次男イワンを主人公として1回、さらには婚外子スメルジャコフを主人公として1回読んで、そののちにアレクセイを主人公とした普通の読書を1回やれば、また違った世界が立ち現れるのではないか。

結果、この読みかたがいちばん合致したのは『悪霊』だった。

2度読んで、2度とも不完全燃焼な、くすぶるなにかを残していた『悪霊』だったのだけれども、悪魔の化身めいたスタヴローギンを主人公として読むことをやめ、ステパン氏を主人公として読んだとき、自分のなかですべてのピースが埋まった気がした。ここに流れるベースラインは、ステパン氏とワルワーラ夫人による斜陽のメロドラマなのだ。研究者の先生方からは怒られるのだろうけど、そう理解することでいろんな胸のつかえが下りた気がした。


ひさしぶりにドストエフスキー、読みたいなあ。