きのうの自分が見た明日。

きょうのブログは、きのうの日曜日に書いている。

普段のぼくは会社に出かけ、メールや書類やの事務仕事を終わらせたのち、なるべく午前中のうちにブログを書く。読み返すことも、寝かすこともせず、書き終えた3秒後には公開ボタンを押している。書かれたものと「いまの自分」とのあいだに、ほとんど隔たりがない。

なので、こんな感じで「前日までに書き溜めていたもの」をブログとして出すこと(過去に何度かある)については、違和感を覚える。罪悪感ってほどではないにせよ、どこか「ほんとう」じゃない感じが残るのだ。


たとえば、1年前に自分が書いたことについて「あなたはこう思っているんですよね?」と訊かれたとする。「あれはどういう意味なんですか?」と訊かれたとする。自分がまっすぐ書いた(言った)ことばであるかぎり、こういう意味なんですよ、と説明することはできる。けれども過去の自分に「いまのことば」で輪郭線を引こうとすると、その筆致が踊れば踊るほど、本来あったはずの自分から離れていく気がする。

だから印刷物として公にする文章については、それぞれのことばの賞味期限について吟味を重ね、「ここまでは考えきることができたし、輪郭線を引くことができた」と思えるものだけを世に出すことにしている。あとからあれこれ線を引かずに済むよう、ましてや消しゴムを取り出さずに済むよう、心がけている。

比べてこのブログは、賞味期限が「本日限り」の、きわめて生ものに近いことばになっていると思うし、それはほとんど会話と言ってもいいくらいのことばだ。なにも悪いことじゃない。むしろ、気負いのないその音と流れは心地よいものだ。


明日、つまりはきょうの月曜日、会いたかった人たちと久しぶりに集まる予定でいる。手紙のやりとりもたのしいけれど、泡のように消えていく会話のやりとりは、氷のように溶けていくその時間は、もっとたのしい。


なにが言いたかったかというと、「明日がたのしみだなあ」である。ほんとにこのまま公開するのかな? とりあえず保存ボタンを押しておく。

教祖猫を噛む。
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古賀史健