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その犬の歩むところ。

先日、わが家の放蕩息子に親指を噛まれた。

爪が根本から割れ、血がしたたり落ちる、久方ぶりのでっかいシュワルナゼ、すなわち外傷だった。相応の激痛が走ったし、悲鳴もあげた。瞬間、あたまにカッと血がのぼった。

「痛いっ!」

噛んだ本人の目を見て、ぼくはもう一度叫んだ。それ以上に咎めることはなにもせず、洗面所で傷口を洗い、止血と消毒に努めた。反省しているのかいないのか、本人はきょうものんきな顔をしている。

はじまりは、ぼくの油断だった。夜のおそくに帰宅して、ぼんやりテレビを眺めていたぼくは、脱いだ靴下をそのままソファ近くに置いていた。風呂に入るとき洗濯機に入れよう。そう油断していたのだ。

ところが、靴下が好きで好きでたまらない愛息は、めざとくそれを発見する。「待てっ!」なんて追いかけようものなら、チアリーダーばりの勢いでしっぽを振って「キャッチ・ミー・イフ・ユー・キャン!」ごっこを仕掛けてくる。ああ、まずいモードに入っちゃったなあ、と思いながらも彼を捕獲し、靴下を右手でつかむ。「放せ」と言えば言うほど依怙地になってぎりぎり靴下を噛みしめるバカ息子。やむなく右手で靴下をつかんだまま、左手にドッグフードを持ち、「ほぉーら、こっちのほうがいいだろー」とぶらぶら挑発していたその瞬間、混乱と興奮とが沸点に達した犬が、ガブリ。フードと一緒にぼくの左手親指を噛んでしまったのである。


うん。お前は悪くない。興奮させてしまった、図らずも挑発するような行動をとってしまった、おれが悪い。あとはまあ、興奮をおさえきれないお前の「若さ」も少しダメだけど、それは若さのせいであってお前のせいじゃない。

いま通っている動物病院の先生から、こんな話を聞かされた。


「犬と暮らしていて、なにか問題が起こったとしたら。犬がなにかいけないことをやったとしたら。そのときには『すべて犬が正しい』のだと思ってください。犬が正解であって、不正解なのはいつも人間の行いです。たとえ問題行動があったとしても、それはそうさせた人間の側に問題があったんです」

最近『その犬の歩むところ』という本(傑作!)を読んだのだけど、まさにそんな内容の本だったなあ。犬、犬、犬、ああ犬たちよ、ぼくはきみらが大好きだよ! 一部、引用しますね。

犬について詩人はさまざまに詠ってきた。犬の血統に関しては歴史家がさまざまに語ってきた。アフリカからローマまで。エジプトからアジアまで。人のいるところには必ず犬がいた。一方の足跡のあるところには、必ずもう一方の足跡があった。犬というのはわれわれの生ける意識の一部であり、われわれの永遠の良心の核だ。
ディーンは犬を飼ったことがなかった。だから犬が飼い主をどれほど社交的な人間にするか、他人との気楽なやりとりの導火線となるか、そしてなにより彼らが示すやさしさと感謝を通じて、どれほど孤島と孤島との橋渡しの手助けをしてくれるものなのか、これまで経験したことがなかった。

長期休暇を取って、犬と旅行に行きたいです。