情報の足し算と引き算。

偉そうで、気むずかしそうで、怖そうな人が多い。

あまりその業界にくわしくない人間としてのぼくの、アニメーション監督に関する先入観である。悪口を言っているように聞こえるかもしれない話なので個人名を挙げることは避けるけれど、大御所とされるアニメーション監督の方々は、その作品のすばらしさとは別に、どこか偉そうだったり、気むずかしそうだったり、怖そうに映ってしまう。少なくともインタビュー記事を読むかぎり、そう断ぜざるをえない。

一方、マンガ家の方々でそうしたおそろしさを感じさせる方々は、ほとんどいない。ぼくが直接ご面識のあるマンガ家さんはせいぜい両手の指、おそらくは片手の指で足りるほどでしかないけれど、彼ら・彼女らはみな繊細ではあっても温厚で、偉そうだったり怖そうだったりすることはほとんどない。

と、こうやってアニメーション監督とマンガ家を引きくらべること自体が、手塚治虫さんを実質的な祖とする日本の特殊事情というか、本来くらべるものでもないのだろうけれど、おもしろい問題なので考えてしまう。


おそらくその差は「コントロールできる情報の量」なのだと思う。

マンガとはいわば、コマ割りを通じて描く紙芝居のようなメディアだ。静止画の連続で、効果音もBGMも声もない。それに対してアニメーションは、背景もキャラクターも動くし、音も出せれば声も出る。スローモーションや早送りでさえ、できてしまう。同じ「絵とことば」を出発点にしながら、マンガとアニメーションとではコントロールできる情報の量が、まったく違っている。


それゆえ、なのだろうか。

アニメーション作品においては、情報量の多さが作品の評価につながることが一般的なようで、監督が「いかに詰め込むか」に腐心した作品をたくさん見かける。ぼくの親しんできたフィールドのことばでいうと、それはプログレッシブ・ロックの巨人たちみたいな、ひたすら足し算・かけ算を重ねていく作品づくりだ。

他方、マンガのなかに情報量を詰め込みすぎようとするとコマ割りが細かくなり、セリフが多くなり、結果として作品のリズムをおおきく損なってしまう。そのため優れたマンガ家は、引き算で作品をつくっていく。大胆に場面を転換し、省略し、余白を設け、10のことばを1で語らせる。なにをどこまで省略して飛躍できるかがマンガの勝敗を分ける。


そうした大胆な省略と飛躍を支えるのは、自分と読者の双方への信頼だ。自分の読者だったら、これでわかってくれるはずだ、このスピードについてきてくれるはずだ、なぜなら自分はここまでは描いているのだから、と。

おそらく、思う存分に(もしかしたら自分の思い以上に)情報を詰め込んでいくアニメーション監督の場合、観客への信頼はうすくてかまわない。というか観客への信頼がうすければうすいほど、情報は詰め込みやすくなる。そして、いわば全知全能の存在として何十年もプログレバンドのリーダーとして君臨していれば、偉そうで気むずかしそうで怖そうなオーラも出るに決まっているというか、出さざるをえない立場なのだろう、それは。


で、なにが言いたかったかというと。

文章という不自由極まりないツールのみに頼っているライターのぼくは、情報を過度に詰め込んだプログレッシブ・ロック的な原稿ではなく、引き算に引き算を重ねたような原稿を書いていきたいし、それこそが文章のおもしろさなんだよなあ、と思うのである。


次に書く本(文章の本)についていろいろ考えているうちにこんな話が浮かんだのだけれど、さすがに本に入れる話じゃねえなと思ったので思考の整理のため、ここに書きました。アニメやマンガにくわしい方々、ぼくにはそう思えるというだけの、しかも比喩としての話なので、「ぜんぜんわかってない!」とか怒らないでくださいね。

椅子の上にも3円。
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古賀史健

古賀史健(2018)

古賀史健の note、2018年分です。
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