工夫ばかりになってないか?

きょうの昼、出前のかつ丼を食べた。

食べながらふと、おれはこれをつくれるのかなあ、と思った。つくれねえよなあ、と思った。この場合の「つくれねえ」とは、レシピ本を見ながら調理できるかできないかの話ではなく、かつ丼なる料理を発明することができるのか、という意味の話である。

それなりの面倒を乗り越えてサクサクに仕上げたはずのとんかつを、あまからい出汁たまごでとじて、べちゃべちゃにする。それをごはんのうえに載せる。このかつ丼ならではの工程もそうなのだけど、なにより毎度すげえなあと思うのが、とんかつという食べものそれ自体の発明だ。


思考実験として、カツレツ料理やコロッケ料理が存在しない世界を考えてみる。

豚肉を油で揚げたらおいしいだろうなあ、と思うところまではいくだろう。素揚げじゃダメだろうから衣をつけなきゃね、と考えることも、一応できると思う。シンプルな天ぷらにするのか、しっかり下味をつけた唐揚げにするのか、迷うとすればそこだろう。しかしここから「小麦粉をまぶし、溶き卵をからめて、パン粉をつけて揚げる」に自分が行きつくとは、到底思えない。


これはクリエイティブの根幹にかかわる話である。

どうしてぼくは、とんかつにたどり着けない自分を予測しているのか。それは、ぼくに「つくる人」としての知識や想像力が欠けているという以前に、「たべる人」として豚の天ぷらや唐揚げに満足しちゃう姿が目に見えるからなのだ。

つまり、「これ、カレー粉を振るとうまいんだよな」とか「おれはウスターソース派だね」みたいに豚の天ぷらに満足し、唐揚げにしたって「はちみつを入れたタレで揉み込むと、劇的にうまくなるぞ」くらいの工夫に大満足してしまうがゆえ、発想が遠くに行かないのである。大小さまざまな「工夫」がむしろ、その都度ちいさな達成感をもたらし、満足感をもたらし、結果的にイノベーションの芽を摘んでいる可能性はおおいにある。



自分のやってる仕事についても、ときどき「そこに発明はある? 工夫だけになってない?」と問いかけておかないと、たいへんなことになる。

100の工夫よりも1の発明にぼくは、価値を置いていきたいと思うのだ。

椅子の上にも3円。
320

古賀史健

古賀史健(2018)

古賀史健の note、2018年分です。
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