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旅の続きに考えること。

ほかのことを考える余裕がないので、旅の続きの話を書く。

車で気仙沼まで」の旅の2日目、飯舘村と女川町を訪ねた日の夜、ぼくは原稿の冒頭にこんなことを書こうとして、やめた。もうテキストは消してしまったのだけど、残っている下書きをそのまま貼っておこう。

ときどきぼくは、まじめな人として扱われる。
「古賀さんはほら、まじめな人だから、あれだけれども」
「へえー、古賀さんみたいにまじめな人でも、そうなんだ」
聞くたびぼくは、ちいさくがっかりする。ああ、まだまだおれは「まじめ」なんだなあ、と。

もしもそれがセンスオブユーモアに関わる指摘なら、なんらがっかりする話ではない。センスの欠如であり、動かしようのない事実だ。けれどもぼくが「まじめ」な自分に肩を落とすのは、それがとてつもなく簡単で、らくな道だからだ。無難を選び、保身を重ね、臆病に身を固めていれば、その人は「まじめ」の評価を受ける。ぼくにとっての「まじめ」とは、ただただ勇気とアイデアの欠如、そのあらわれである。

きょうの3月10日を「まじめ」に振り返れば、いくらでもすらすらと、それらしい原稿が書けるだろう。はじめて聞いた話、おどろいた話、深く得心した話、伝えたくてたまらない話は、たっぷりある。飯舘と女川で、何人もの方々にたくさんのお話を伺った。それをわかりやすい物語にのせて、もっともらしい提言を加えれば、立派で「まじめ」な読みものができあがるだろう。

でも、この旅でぼくが書きたいのは、そんな種類の「まじめ」ではない。ぎこちないユーモアでもなければ、代弁でもない。やっぱり「自分」の話をぼくは、正直に書きたいのだ。東北の方々を代弁したつもりになるのではなく、そこで自分がなにを思い、これまでとこれからの自分になにを問いかけたのか。たぶん、そこから外れるとぼくは、つまらない「まじめ」になってしまう。

書きながらおどろいたのは、自分に芽生えた「代弁すること」への強い違和感だ。誰かにじっくり話を伺って、周辺を調べ、前後を調べ、その人の思いをわかりやすい構造をもった日本語に変換する。読みものというかたちで、たくさんの人たちに届ける。そんなライターの仕事には、「代弁」の要素が多分に含まれる。

けれどもぼくはあの日、「代弁者」が構造的に抱える欺瞞について、身震いした。誰かを代弁したつもりになることは、とんでもなく傲慢な発想だ。これはちょっと、自分の職業そのものを見つめなおすべき気づきに感じられた。

といって現在、自分と「代弁」との距離について、なにか考えがまとまっているわけではない。書けば少しはヒントが見えてくるかと思ったけれど、なにも見えないまま、気持ちがぶらぶらしている。


ああ、考えてみれば書けないことだらけだったなあ。くだらない冗談もあふれた涙も、書いてしまえば陳腐な再現になってしまう。そんなことだらけだったなあ。きのうの夜、夢のなかでもぼくは車で走っていたよ。