好きよりも大切かもしれない「嫌い」。

日本語ってむずかしいなあ、と思う。

文章読本の類いを開くと、たいてい「自分が好きな作家の文章を真似なさい。書き写しなさい。その構造やことば選びを、あたまとこころの両方で体得しなさい」といったことが書いてある。これはとっても正しい。構造や論理展開を含めた意味でいうと、きっとぼくにも固有の文体(スタイル)があり、それはたくさんの「好きな文章」を学んだり盗んだりしているうちに体得されていったものだと思う。

ところがじつは、ほんとうに「好きな文章」を自覚するのは、なかなかむずかしい。というのも、なにかを読んで「いい」と思ったとき、それが「語られている内容」についての是なのか、あるいは内容とは別の「語られかた」についての是なのか、わかりづらいところがあるからだ。

ここの判断ができないまま漠とした「いい文章=好きな文章」を模倣していると、「いいこと」しか言えない人になる。お手本には「いいこと」が書いてあり、自分も「いいこと」を言っていればほめられるのだ。風呂敷のおおきな話をするなら、これは国語教育全体に横たわる問題だ。とくに小学校時代、ぼくらは国語を学んでいるのか道徳を学んでいるのか、その境界線がきわめてあいまいなところで教科書を読まされ、作文を書かされ、マルだのペケだのをつけられている。


なのでぼくは「好きな文章」に注目してそれを真似るよりも、「嫌いな文章」に注目することを、手順として推奨する。

きっと誰にも「言ってることは正しいんだけど、なんか気に食わないなあ」という文章があるはずだ。「一理あるのはたしかだけど、なんかヤダ」みたいな文章が。その「内容の正当性」とは別のところにある違和感や拒否感のなかにこそ、自分だけの「好き/嫌い」が隠れている。ある文体(スタイル)への好悪が隠されている。


という話を枕に「わたしの嫌いなもの」について書こうと思ったのですが、なんだか長くなってしまったので続きは明日にします。

まあ、こういう前段を置かないと「これが嫌い」を表明しづらいと、ぼくは思っているのでしょうね。

郷に入ってはひろみに従え。
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古賀史健

言葉・文章・書くこと

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