見出し画像

剽窃と距離の関係。

ラーメンの世界には、「インスパイア系」というジャンルがある。

そのほとんどは港区三田に本店をかまえるラーメン二郎の味とシステムを模倣したもので、一般には「二郎インスパイア系」と呼ばれている。残念ながらぼくはラーメン二郎を食べたことがなく、その味にインスパイアされたというラーメンたちも同様に食べたことがなく、これ以上踏み込んだ話ができないのだけれど、インスパイア系ということばを聞いたときの「そうきたか感」はなかなか衝撃的なものがあった。

パクリとインスパイアには、どんな違いがあるのか。きょうはそのことについて、ぼくなりの考えを書いてみたい。

ラーメン業界の実際を知らないままに書くと、インスパイアということばには少なくとも一定の敬意がある。あなたのことを尊敬しています。あなたに影響を受けて、わたしも自分なりにこうやってみました。そんな、ファンレターにも似た思いがインスパイアの語には込められている。

一方のパクリには、ひとかけらの敬意もない。剽窃元に関わろうとする意志もないし、むしろ「バレなきゃいいな」くらいに思っている。コソコソとおこなわれるもの。それがパクリだ。


じつを言うと、ぼくがこれまでに書いたいくつかの本も、何度となくパクリの被害に遭っている。『嫌われる勇気』もそうだし、『20歳の自分に受けさせたい文章講義』だってそうだ。あまりに悪質なもの(なおかつそれで商売をしているもの)については法的な手段を検討したりもしたのだけれど、つまりは著作権侵害を認めてはならないのは当然なのだけれど、それでもぼくはパクられることについて、ある程度は仕方がないと思っている。ぼくだって誰かや誰かの影響を受けて自分があるわけだし、ほんとうの意味でゼロからなにかをクリエイトできる人間なんているはずがないのだから。それに、なにかを書いて出版した時点で、その内容はパブリックなものとなるのであって、自分ひとりで独占することなどできないし、そうしたくない(世に広めたい)からこそ出版しているのだ。


ただ、なあ。

パクリであれ、インスパイアであれ、引用であれ、参照であれ、せめてそれは「遠いところ」から持ってこいよ、と思うのだ。

近いところから気軽にパクってくるんじゃなく、どこか遠くの国まで旅をして、異国の地で見つけたなにかをパクってこいよ、と。つまり、経営の話を流行りの経営書からパクってくるのではなく、たとえば物理学の本からパクってきたり、社会学の本からパクってきたり、教育学の本からパクってきたり、あるいは古典文学にインスパイアされてみたり。

そういう、掛け合わせる空間軸や時間軸が長いほど、つまりは旅する距離が長いほど、得られる答えはただのパクリではない、その人だけのオリジナルへと育っていくと思うのだ。