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天才は、厄介で面倒くさい。

天才って面倒くさい存在だなあ、と思うことがある。

純朴なサッカー少年だった中学・高校時代、ぼくにとってのアイドルは完全にマラドーナだった。イングランド戦での5人抜きや「神の手」ゴールを生んだ86年のW杯メキシコ大会が、中学1年のころ。深夜のテレビ中継を観ながらぼくは、熱心にスコアブックをつけ、誰に頼まれてもいない各試合のレポートを書いていた。そう考えると当時からライター気質が強かったのだろうけど、それとは別にサッカー少年としてのぼくは、完全にマラドーナ信者だった。

たとえばマラドーナは、身長が165センチにも満たない。「日本人は身体がちいさいから世界で勝てない」のロジックは、マラドーナの前では通用しない。そして生涯を通じて小柄だったぼくも、マラドーナの存在には大いに勇気づけられたし、目標にするならこの人だと思っていた。

そしてサッカーファンのあいだではよく知られた話なのだけど、マラドーナはほとんど左足しか使わない。右足でさばくべきボールも左足でタッチし、曲芸めいたテクニックのほぼすべては、左足からくり出される。あの伝説の5人抜きだって、ぜんぶが左足でのボールタッチだ。

さて。これが厄介なのである。

脳の構造上、人間には利き腕、利き足、利き目、というものが存在する。そしてたとえば右利きの人間は、左手で文字を書いたり箸を持ったりすることが、とても下手である。そのため野球選手は利き腕でボールを投げるし、テニスやバドミントンの選手も利き腕でラケットを持つ。

ところがサッカーの場合、それが許されない。仮にサッカーの教科書があるとすれば、第1章のどこかには「両足でボールを操れるようになろう」と書いてあるだろう。中学時代のぼくにも、その課題は突きつけられていた。右足ばっかりで蹴ってないで、ちゃんと左でも蹴れるようになれよ、と。


バカボンなことにぼくは、その忠告を無視した。地道で面倒くさい左足の練習から逃げ、「あのマラドーナだって、左足一本でやってるんだぜ。おれも右足を極めたほうがいいに決まってるじゃん」とうそぶいていた。

強豪校の高校に進学し、2軍での立場さえ危ういような状況に追い込まれて、ようやく気づく。天才を真似しちゃいかんのだ、と。そしてなにより、あんなにしてるマラドーナだってちゃんと右足でも蹴れるのだ、と。


思えば高校時代にギターを買ってみたときも、ぼくは最初の課題曲にデレク・アンド・ザ・ドミノスの「Have you ever loved a woman」を選び、最初の2小節で「こんなもん、できるか!」とあきらめたのだった。

天才を真似しちゃいかん。

仮に真似するにしても、そこにはステップというものがある。


なさけない青春時代の、おおきな学びである。