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あの人の目があるからこそぼくは。

あの人がいてくれて、ほんとうによかった。

勝手にそう思っている「あの人」が、ぼくには何人かいる。もちろん幅広い意味での感謝の対象となる人はもっとたくさんいるのだけど、もっと仕事に限定した、ライター業に限定した話として、勝手に感謝している「あの人」が、何人かいる。

別にその方々から文章の指導を受けたとか、師弟の関係であったとか、そういう話ではない。むしろ文章そのものについて、なにかを直接言っていただいたことなど、ほぼ皆無だ。

それでもなんというか、ぼくはいつもその方々の「目」を感じている。ぼくの仕事なんて見ていてくれないかもしれないけれど、読んでくれたりしないかもしれないけれど、勝手にぼくは「目」を感じている。あの人にがっかりされない仕事をしようと、勝手に思っている。


さすがにぼくもいい歳なので、自分がこれから劇的に文章がうまくなるとは思っていない。もう基礎のところは固まっていて、世間で文才と呼ばれるようなものの天井も見えていて、そのゆるやかで現実的な延長線上にしか、自分の将来を思い描いていない。ほんとうの理想と比較していえば、ぼくはぜんぜん下手っぴな書き手だ。

ただ、これはいつも言うことなのだけど、「上手でないこと」と「雑であること」は、まったく違う。

上手でない自分がいるのは、ある意味仕方のない話だ。理想が高ければ高いほど、そうなってしまう。けれども、「雑な自分」をそのままにしておくことは、ぜったいにダメだとぼくは思う。

そしてぼくが「これはよくないなあ」と思う文章の9割は、それが上手でないからではなく、ただただ雑に書かれているから、そう思うのだ。


ぼくは「雑」を回避するいちばんの手立ては、「あの人の目」を想定することだと思っている。あの人がこれを読んで、どう思うだろう。あの人がこれを読んで、がっかりされないだろうか。あの人に恥ずかしい仕事を、あの人に申し訳ない怠慢を、あの人におもしろがられない無難を、自分は選んでしまっていないだろうか。


◇ ◇ ◇


なんかね。きのうポール・マッカートニーのコンサートに行って、やっぱりウイングスやソロ時代の曲よりもビートルズ時代の曲のほうがキラキラしていて、野心やアイデアやいたずらに満ちていて、それは「ジョン・レノンの目」がそこにあったからなのかなあ、なんて思っちゃって。それでこんな話をしたのでした。

創作における客観って、要するに「あの人の目」ですよね。主観の一形態でしかないんですよ、やっぱり。