スパイスとしての理不尽。

平昌オリンピック・パラリンピックがはじまって、きょうが5日目。

開会式のスタジアムが寒すぎるんじゃないかとか、ノロウィルスが発生したらしいとか、ボランティアが大量離脱したらしいとか、ホテルが足りないとか余っているとか、選手村の食事がまずそうだとか、大会前に語られた野次馬的な不安をよそに、いま最大の問題となっているのは「風」であるようだ。

報道ベースで聞きかじった浅い知識でしかないけれど、そもそも平昌は風力発電所が置かれるほどに風の強い地域で、実際にスキージャンプやアルペン、スノーボード関連の「山」が舞台の競技は、軒並み風の影響を受けている。選手やコーチ陣の不平不満も、たくさん漏れ聞こえてくる。素人目に見ても「これは無理だろう」という場面が多々あるし、おそらく大会終了後にさまざまな検証がなされるのだろう。

そういう平昌を見ていると、もはや「あらゆる冬のスポーツ競技を一同に集めて、同じ期間に同じ場所で、世界一でっかい大会を開く」というコンセプトそのものに無理があるんじゃないかと思えてくる。同じ期間にやるのはいいとしても、たとえばアルペンスキーの世界一を競わせるのであれば世界一の会場であるべきだし、それはどの競技でも同じで、あらゆる競技をそれぞれ「世界一の会場」で同時開催すればいいじゃないか、それがアスリート・ファーストな競技のありかたじゃないか、合理的な「世界一」の決めかたじゃないか、という気がしてくる。

しかしながらそれでは、「世界一の大会」にならないのだ、たぶん。

無茶や不合理、理不尽、非効率だらけであることを受け入れながら、無理やりにでも同じ場所で同じ期間に集まるからこそ、オリンピック・パラリンピックは「特別な大会」になるのだ。


これは本づくりのようなコンテンツ制作の場面でもたぶん同じことが言えて、あまり「コンテンツ・ファースト」が行き過ぎると、作品のダイナミズムが失われてしまう。少年ジャンプに代表される週刊マンガ誌なんかはその典型だけど、合理性からかけ離れた無茶苦茶な舞台設定(締切設定)が作品をドライブさせるのだ。

最近、コンテンツ・ファーストな発想に傾きすぎていた自分。オリンピック中継を眺めながら、それだけじゃないよなあ、バランスなんだよなあ、なんてことを思ったのでした。ちょっと唐辛子を振りかけるみたいに、理不尽な要素も振りかけないとね。


武士は食わねど高橋ジョージ。
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古賀史健

古賀史健(2018)

古賀史健の note、2018年分です。
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