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きのう、手相を観てもらった話。

きのう、ひょんな偶然から手相を観ていただくことになった。

こういう話をするときには、「お前は手相や占いを信じる人間なのか、それほどにも非科学的で情緒的な人間なのか」との声があがってくるものだ。その予防線として、ぼく自身の占い観めいたものを先に書いておこう。

長年たくさんのひとをインタビューしてきたぼくは、自分のことをすぐれたインタビュアーだとは思わないけれど、ひとつだけ明らかに長けた能力があると思っている。

それは、そのひとの「うそ」を察知する力だ。

残念ながらなのか当然ながらなのか、インタビューの場で「うそ」をまぜてくるひとは意外なほど多い。背伸びをした発言だったり、聞きかじりのことばを自分で考えたことばのように語ったり、都合の悪い部分をうやむやにごまかそうとしたり、あるいは虚言や詐欺・詐称と呼ぶべきレベルの「うそ」だったり。同席している編集者が気づかない「うそ」も、なぜだかぼくは察知する。

とはいえ、そこはインタビュー。仮に「うそ」を察知したときでも、そこにある矛盾を指摘したり、追及したり、証拠を突きつけてさらに突っ込んだりなんて真似はしない。基本的には「へえ」と聴いていくだけだ。そしてそのあたりの話を原稿に書かないだけだ。無意識に出てきた「うそ」は仕方ないところがあるけれど、意識的な詐欺に付き合うわけにはいかない。

占いも基本的には同じで、ぼくはそのひとの語ることが「ほんとう」であるかどうかには、それほど興味がない。注意を払っているのは、「うそ」をつこうとしているかどうかだけだ。なので雑誌の巻末に載っているような占いは距離の置き方がわからないものの、対面式の占いであればそれが「うそ」なのか「うそではない、なにか」なのかはわかると思っている。

きのう手相を観ていただいた方は、「うそ」をつこうとしている感じではなかった。ご自分の組み立てる物語や理屈に酔う感じでもなく、見えるものや感じるものをどうにかことばにしようと、もがき苦しんでいる感さえあった。

彼女によるとぼくは、いまの仕事や人生に飽きているのだという。どこか心が冷めてしまって、その熱を取り戻すべくいろいろやっているのだという。


ぼくは訊いた。

「いま、来年に向けてこういうことをやろうと思っているんですけど、その選択はどう思いますか?」

軽く笑って、彼女は言った。

「どう思うもなにも、古賀さんはわたしがなんと言ったところで、やりますよね、それ。そこは誰にも止められないひとです。だから大切なのは、やったあと、だと思います」


そっかあ。やっぱり、やるのかあ。

なんにも変わっていないのだけど、なにかが変わった気がした。