見出し画像

プロフィールと「わたし」の関係。

最近、プロフィール文を送ってくれ、と言われる機会が増えてきた。

わかりやすい例を挙げるなら、本の袖とかについている著者略歴、みたいなものである。たとえばいま、机の上にある町田康さんの最新刊『珍妙な峠』の著者略歴は、こうなっている。

町田康 
一九六二年大阪府生まれ。九七年『くっすん大黒』で野間文芸新人賞、Bunkamuraドゥマゴ文学賞を受賞する。二〇〇〇年『きれぎれ』で芥川賞、〇一年『土間の四十八滝』で萩原朔太郎賞、〇二年『権現の踊り子』で川端康成文学賞、〇五年『告白』で谷崎潤一郎賞、〇八年『宿屋めぐり』で野間文芸賞をそれぞれ受賞。小説・随筆・詩集など著書多数。

まさに壮観、なのだけど、ちょっと立ち止まって考えよう。もしもこれ、受賞歴のいっさいない、しかもデビュー作の作家だった場合はどんなプロフィールになるのだろうか。そのひとの歴史をどう略し、つまりは略歴をこしらえるのか。

何年に生まれたのかは、入れたほうがいいだろう。生まれ育った場所も、それなりに有用な情報だ。あとは学歴? 職歴? そこでどんだけぶいぶい言わせてきたか?

ちなみに誇るべき学歴も職歴も持たないぼくは、デビュー作にあたる『20歳の自分に受けさせたい文章講義』のプロフィールがこんなふうになっている。

古賀史健 フリーランスライター
1973年福岡県生まれ。かねて映画監督を夢見るも、大学の卒業制作(自主映画)で集団作業におけるキャプテンシーの致命的欠如を痛感し、挫折。ひとりで創作可能な文章の道を選ぶ。出版社勤務を経て24歳でフリーに。30歳からは書籍のライティングを専門とする。以来、「ライターとは〝翻訳者〟である」「文章は〝リズム〟で決まる」を信念に、ビジネス書や教養書を中心に現在まで約80冊を担当。編集者からは「踊るような文章を書くライターだ」と言われることが多い。多数のベストセラーを手掛け、インタビュー集『ドラゴン桜公式副読本 16歳の教科書』(講談社)はシリーズ累計70万部を突破。本書は単著デビュー作となる。

長い。あほみたいに長い。しかも挫折って。そんなやつの本、誰が読むんか。これは当時、星海社新書の編集長だった柿内芳文氏が「著者略歴には物語が必要だ!」との方針から採用していた長文プロフィールで、ぼくもゲラゲラ笑いながら書いていたのだけど、うーん。いま読み返すと、ライターや文章への考え方も当時とは変わっているし、編集者から「踊るような」みたいに言われることもなくなった。あのころのぼくを的確に表す文面ではあるものの、「ぼく」は変わっていくのだなあ、と思う。

でもね。いまはぼくも事実だけを並べた履歴書みたいなプロフィールを使ってるけど、この「主観だらけのプロフィール文を書いてみる」って作業、意外と自分を知るおもしろいあそびになると思いますよ。

主観とはいえ、「ここまでは言える」「これ以上は言いすぎ」のラインはぜったいあるはずで。

いま自分が主観だけで、著書とか受賞歴とかいっさい入れないでプロフィールを書いたら、どんな感じになるんだろうなあ。やっぱり「挫折」は、外せないだろうなあ。