どこかで読んだはずの、あの話。

若いころのぼくは、いまよりもずっと図書館を利用していた。

本を買うお金がなかったという身も蓋もない理由のもあるけれど、ふつうの本屋さんでは手に入らないような絶版本がたくさん揃っているのが、なによりよかった。20代までのあいだ、学術書に分類されるような本の大半は、図書館で読んできたような気がする。いまではその多くがネット書店経由で手に入るようになり、ありがたいかぎりだ。

財布にもやさしく、夏の季節は身近な避暑地としても重宝する図書館だが、あとになってひとつ困ることがある。


「あの話」を誰のなんという本で読んだのかさっぱり思い出せず、読み返して確認したり、それを引用したりできなくなることだ。

たとえば、ぼくが大学生のころに福岡県立図書館で読んだはずの本に、こんな話があった。

古代ギリシア・ローマの人びとは、「芸術」に7つの活動領域を認めていた。歴史、詩、悲劇、喜劇、音楽、舞踏、天文学である。それらはいずれも宇宙(つまりは神)と人間との距離を計測し、説明するための手段であり、宗教的行為であった。なかでも芸術の起源と考えられるのは、舞踏である。

人間は、単調で規則的なリズムに乗って踊ることで、一種のトランス状態に誘われていく。舞踏がもたらすトランス状態のなかで人びとは、「神」に触れる。「神」の声を聞き、光に包まれ、その実在を確信する。その証拠に、西洋文明から隔絶された未開地域に生きるいかなる部族にも、舞踏と打楽器を見ることはできる。「神とわたしの距離を測る行為」としての芸術の起源は、ダンスなのである。

これが、どこで読んだ話なのかさっぱり思い出せないのだ。心当たりのある本をいくつか取り寄せて読み返すのだけど、これをそのまま語ってくれる本には、いまだ再会できない。よって、たとえば自著などに自信をもって引用することが敵わず、こんな場所に書くことしかできずにいる。いや、その後にさまざまな芸術からポピュラー音楽、クラブシーンの隆盛、そして文章におけるリズムの重要性までを考えるのにかなり役立った話なのだけど。


たぶん、いくつかの本で読んだ記憶がブレンドされ、ごっちゃになっているのだろう。とはいえ、もしかしたらぼくの創作も何割か含まれているかもしれず、記憶ってのはおもしろいなあ、と思う。

桃栗三年、カキうまいねん。
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古賀史健

古賀史健(2018)

古賀史健の note、2018年分です。
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