P5250423_のコピー

逃げられないから、逃げるんだ。

いったいカツオは、なにを慌てているのだろう。

夏休みのこの時期、カツオは毎年夏休みの宿題に追われている。サザエから叱られ、ワカメにたしなめられ、タラオから頓狂なアドバイスを受け、居間に陣どる波平の目を、逃れようとする。小学生のころ、ぼくはその気持ちがまるで理解できなかった。自分のなかに「夏休みの宿題を出す」という選択肢が、まるっきりなかったのだ。カツオの学校はたいへんなのだろうなあ、と思うくらいしかできなかった。

作家の浅生鴨さんから「 #8月31日の夜に 」というハッシュタグとその企画趣旨を教えられ、じぶんもなにか書いてみようと思ったものの、宿題ひとつをとってもそんな体たらくで、ぼくは 8月31日の夜について書くべきことをあまり持っていない。ただ、「思えばあそこからはじまったんだよなあ」という夏の終わりについての話を、ひとつ思い出した。長くなるだろうし、うまく書けるかわからないけれど、書いてみたい。そしてもし、不安な夏休みを過ごす10代の誰かたちに届いてくれたら、うれしく思う。


8月31日の夜に。


小学4年生の夏、ぼくは転校した。

福岡県の北九州市から、筑後地方のちいさな町に引越した。転勤族の家庭に生まれたぼくにとって、4校目の小学校だった。新学期の9月1日から、あらたな小学校生活がはじまる。今度のクラスは4年4組らしい。転校するのは嫌いじゃなかったし、ぼくは新学期をたのしみにしていた。

ところが転校先の4年4組は、まるで勝手が違った。ぼくのことを「都会からやってきた生意気なやつ」として扱い、ちっとも仲間に入れようとしなかった。ほどなく上靴を隠したり、給食袋を隠したり、体操着を汚したり、わかりやすい「いじめのようなもの」がはじまった。けんかになり、彫刻刀で切りつけられたこともあった。担任の先生はそれについて裁判めいた学級会を開き、傷口をおおきくするばかりだった。

なんなんだ、このバカ学校は。このバカ教師は。ぼくは、ほとほとうんざりした。こっちだって、すき好んでこんなところに来たわけじゃない。向こうの小学校には、友だちがたくさんいるんだ。好きな先生もいて、たのしく学級委員をやったりしてたんだ。それをお前らは、なんなんだ。お前らがそんな態度をとるんだったら、おれは帰るぞ。


ぼくは、ほんとうに帰った。

遠く離れた北九州市の、一学期まで通っていた小学校を、ひとり訪ねたのだ。秋に開かれた運動会の翌日、代休となった月曜日に。


半年ぶりくらいに訪れた小学校。一学期のおわりに「お別れ会」を開いてくれた、なつかしい4年2組。同じ校舎の同じ階、同じ場所にそのプレートはかかっている。教室のドアを勢いよく開くと、クラスのみんながどよめいた。担任の先生は泣き出さんばかりの笑顔でよろこび、友だちみんなが駆け寄ってきた。「どうやってきたの?」「きょう学校は?」「向こうの先生に怒られないの?」。まるで大掛かりな手品でも見たかのように、みんなが目を丸くしている。先生がどこかから余った机と椅子を持ってきてくれた。その日一日、ぼくは4年2組のひとりに戻った。みんなと授業を受け、みんなと給食を食べ、みんなとあそんだ。無敵だった。

そして給食が終わるころ、担任の先生がひそひそ声で訊いてきた。


「むこうの小学校では、だいじょうぶ?」


それまでぼくは、みんなに「むこうの学校がどんなにたのしいか」を力説していた。こんなやつがいるんだよ、運動会ではこんなことをするんだよ、古い古い体育館は「講堂」って呼ばれているんだよ、みんなとすぐになかよくなって、もうたいへんなんだよ。

にもかからわず先生は、「むこうの小学校では、だいじょうぶ?」と訊いてきた。心配そうな顔をして。


ぽろぽろと、涙がこぼれた。

だいじょうぶと言いたいのに、あかるく笑いたいのに、喉の奥に石ころが詰まったみたいになにも言えず、ぽろぽろぽろぽろ、涙がこぼれた。ぼくはなにをしてるんだろう、とはじめて思った。あそこに帰らなきゃいけないんだと、ようやく気がついた。それは、そう。たとえるならぼくがはじめて経験する「8月31日の夜」だった。


翌日から、なにかがおおきく変わったわけではない。転校先の4年4組は、相変わらず居心地の悪い、バカな学級だった。自分のことを「都会っ子」だとは思わないけれど、こいつらはどうしようもない「田舎もん」だと思っていた。なかよくなる必要はないし、相手にするつもりもない。仲間はずれしたければ、おおいにけっこうだ。お前らなんて、こっちから願い下げだ。

でも、ひとつはっきりしたことがある。

もう、帰る場所はない。ここで生きていくしか、ほかにないのだ。


けっきょくぼくは、翌年から地元の剣道クラブに入った。ふつうは3年生からはじめるもので、翌年(つまりは5年生)からはじめるのはイレギュラーなのだけど、それでもいいから剣道クラブに入った。学校以外に、自分の帰る場所をつくりたかったのだ。残念ながらそこで、大親友ができたわけではない。それでも自分に「学校とは別の場所」があるのは、とてもありがたいことだった。

長々と書いてきたわりに、なんの教訓もない話だ。

おとなたちは簡単に「逃げろ」と言う。苦しんでいる子どもたちに、さも簡単な選択肢のようにして「逃げろ」と告げる。でも、ひとりで生きることのできない子どもたちにとって、ほんとうの意味での「逃げる」は、むずかしい。不可能と言ってもいいかもしれない。たとえ逃げたとしても、また日常のなかに連れ戻される。逃げていった先で、自分がどうやっても逃げられない立場にいることを、突きつけられる。

でも。

一度でも遠くに逃げた経験をもっていると、たぶん連れ戻された日常のなかに「ここでの逃げ場」を探したり、見つけたり、つくったりが、ほんの少しだけ上手になるのだ。

逃げてもいいよ。逃げたほうがいいよ。そしてもうわかってると思うけど、どこまで逃げても、たぶん逃げきれないよ。また同じ場所に、連れ戻されるんだよ。でも、たいせつなのは逃げることじゃないんだ。「逃げかた」を、おぼえることなんだ。一度「逃げかた」をおぼえてしまえば、どこにだって自分の居場所はつくれるから。バカなやつらの、バカさ加減に気づいたきみだったら、きっとできるから。

そしておとなになれば、誰からも連れ戻されない場所まで、逃げていくことができるんだ。

45歳のぼくは、いまそんな場所にいる。

それが希望になるかどうかはわからないけれど、事実としてぼくは、逃げて逃げて、ここまでやってきた。


その最初の一歩は、最低だった運動会の翌日に逃げ帰った、前の小学校だったんだ。