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毒も薬というけれど

たとえば友達が、ツイッターに「あいつはすごいなあ」と書いたとします。

それを読んで、ぼくを含む多くのひとは、「へえ、誰のことだろう?」と思うでしょう。すごいひとに会ったんだろうな。じぶんも知ってるひとかな、どんなひとなんだろうな、と思うでしょう。あるいは単に、「ふーん」と素通りするだけかもしれません。

一方、友達が「あいつ、最低だな」と書いたとします。

すると、ひとは「おれのこと? 違うよね?」と不安になります。場合によっては「なんだよ、言いたいことがあるなら直接言えよ」にさえなるでしょう。

毒って、それだけひとを引き寄せる力、注目させる力があるんですよね。そしてたぶん、毒を吐くひとは無意識のうちにそれを知っていて。なんて言えばいいんだろう、SNSで毒を吐いているひとたちを見ると、ちょっとせつない気持ちになるんですよ。

たとえばテレビで活躍している「毒舌タレント」さん。彼らをよーく思い出してもらうとわかるはずなのですが、毒舌って「ひとへの信頼」があってこそ、成立するものなんです。毒舌と呼ばれるタレントさんを支えているのは「とはいえ、このひとは信頼できる」という、人間的な信頼なんです。そこにはキャリアや実績が必要なのかもしれないし、ふと垣間見える知性が必要なのかもしれないし、本気さ、真摯さが必要なのかもしれない。それらの信頼が伴わない新人タレントさんが同じ毒舌を吐いても、ほとんどの視聴者は拒絶反応を示すはずで。

で、SNSという空間は、顔も表情も見えず、声も聞こえないテキストベースの空間なので「信頼」を醸成するのはテレビ以上にむずかしい。

うーん、あんまりお行儀のいい投稿ばかりが増えるのもおもしろくないけど、「信頼なき毒舌」は、誰も得をしないと思うんだよなあ。

ぼくもお酒の席なんかでは毒っぽい言葉も吐きますが、それはお互いの顔が見えてるからなんですよね。言葉ってむずかしい、テキストってむずかしいなあと思います。

あっ。いま思い出したけど、むかし「悪魔の毒々モンスター」って映画がありましたね。毒々って音、好きだな。