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『いちばんすきな花』紅葉と中島敦『山月記』李徴との共通点

 偶然流れてきたラジオNHK高校講座『山月記』(作者:中島敦 内容は省略)。主人公の李徴とはキャラは全然違うけど、あれ、これドラマ『いちばんすきな花』の紅葉のことやん。


 そのラジオで気になったのが、「自己分析の誤謬(ごびゅう)」という言葉。自己分析の誤りというような意味。例として、ある人が「僕はウソつきだ。」と言う。→ウソつきはウソをつくから僕は正直者ということになる。→正直者が「僕はウソつきだ。」と言っている。…これは堂々巡りになる。このことは、自分が自分を語ることの難しさを物語っている。


 李徴は自身のことを「おれ」と言ったり「自分」と言ったりする。「おれ」は他ならぬ李徴そのもの、「自分」は自身を俯瞰して語っている自分を表している。そこにもう一つの「自己分析の誤謬」があるという。自分が自分を語るということは、「語る自分」と「語られる自分」がいるということで、そこには「語る自分がどう語ってるのかを語る自分」が表れて…これも無限連鎖になる。しかし、普段の生活で無限連鎖になることはあまりない。それはなぜか。他者の視点(他者とのコミュニケーション)がストップをかけるからだ。


 李徴の場合、袁傪が聞いてくれる、何らかの形で関わってくれる、何か言葉をかけてくれる、ということでこの無限ループが終わった。李徴の本当の孤独は、コミュニケーションの完全なる欠如による。李徴にとって唯一本当の自分を知らしめたのが、皮肉にも虎になってからの袁傪との出会いだった。自らコミュニケーションをとる相手を失ったことが最大の悲劇だという。紅葉にとっては耳を貸してくれた椿が袁傪かな。


 そして、この講座で最も印象的な言葉、

その人が自分のことを語った真実は、そのことを聞いた人がどう反応するかによって確定していく。


ゆくえが紅葉に言った言葉と同じだ、と思った。紅葉はいつもみんなに囲まれながら、実は誰にも心を開けず孤独だった。そして、一人で自己分析を続ける中で誤謬を犯していた。いじめたりいじめを見て見ぬふりしたりするより、一人でいるかわいそうなヤツ、余ってるヤツに優しいふりをして声をかけていた自分のことを最低だと思っていた。しかし、高校時代かわいそうだと思って紅葉が声をかけていた篠宮は画家として成功し、同じくかわいそうだと思って声をかけていた黒崎とかけがえのない友達になっていた。二人は今でも紅葉の優しさに感謝し、いつもみんなに囲まれている紅葉に憧れている。そして仕事のオファーまでしてくれた篠宮に真実を語ってしまう。篠宮は、そっちの勝手な罪悪感でこっちのいい思い出を塗りつぶさないでと言い、ゆくえは受け取る方が優しいと受け取るならそれは優しいんだよと言う。これは、一人で自己分析を続けていたら気付けなかっただろう。


 篠宮は、紅葉との楽しい思い出のブランコを描いていたが、黄色い絵の具で塗りつぶす。そして、黒崎に耳を貸してもらい、優しく声をかけてもらって救われる。紅葉も椿、ゆくえ、夜々の存在に救われる。篠宮がブランコの上から塗られた黄色い線は太陽が降り注いでいるようにも見えた。結局は自分で解決するしかないが、耳を貸してくれる存在がいるだけで一歩前に進めたり、進めなくてもとどまれたりする。「みんな選ばれてよかった。誰も余ってない。」と言うゆくえの言葉を聴きながら黄色いカップを見つめ、言い聞かせるように「よかった」と言う紅葉。「よかった。黒崎くんいて。会わせてもらえたから。余っててよかった。」と言う篠宮。今後の紅葉、篠宮にも期待。


 高校講座の終わりに生徒さんが言っていた言葉もよかった。

家族や友達といった他者の視点の獲得が生きる上で大切なのかな。


これは、椿が紅葉に言った言葉に通じる。


おなか痛いとき、おなか痛いって言っても治んないけど、痛いのは変わんないけど、紅葉くんは今おなか痛いんだって分かってたい人はいて、分かってる人がいると、ちょっとだけマシみたいなことは、あるから。


 本当に耳を貸してくれる人って大事。今日は第6話。楽しみ。

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