見出し画像

086 ひつじの夜

ある冷たい空気の夜、家に帰ると羊がいました。
居間のソファに座ろうとしたら、先に羊が座っていたのです。
体長五十センチ位の小柄な羊ですが、風貌は立派な大人羊です。

羊は私をちらりと見て、こう言いました。
「先にスーツをハンガーにかけた方がいいぜ」
確かにその通りです。私はいつもへとへとで帰ってくるので、スーツを脱ぐ前にソファに座ってしまいます。そして、そのまま眠ってしまうこともあります。
私はスーツのジャケットを脱ぎ、スカートを脱ぎ、ハンガーにかけました。そのまま脱衣所に行って、ブラウスも脱いで部屋着を着ました。

居間に戻ると、ソファの上にはなにもいません。
羊は私の見間違いだったのです。
最近忙しくて、思うように休めていなかったから、へんなものが見えてしまったのでしょう。

私はソファに座り、ふぅ、と息を吐きました。
「食欲がなくてもなにか食べた方がいいぜ」
羊はローテーブルの下にいました。前足はくるりと丸めて胸の下に置き、後ろ足はそのまま伸ばしています。もこもこで、ハンディワイパーみたいです。
私が帰ってきたから、ソファから降りてくれたのでしょうか。そう思うと、申し訳ない気持ちになりました。
「気にすんな。この家の主はあんただ」
この羊はオスだと思うのですが、こんなに紳士な羊は初めてです。
「足を俺の背中にのせていいぜ。冷え性だろ」
いくら羊相手でも、そんなことはできません。私は冷え切った自分の指先を見つめて、もじもじしていました。

「早くのせろよ。なんのために羊やってると思ってんだ」
そこまで言われると、のせないわけにはいきません。私はこわごわと足を羊の背中にのせました。ふわふわな毛が足の甲まで包み込み、じわじわと足があたたまります。私はしんからほっとしました。
そして、なんだかうとうとしてきました。
「しょうがねぇなぁ」
羊はそう言って、歌を歌ってくれました。
「羊が一匹、羊が二匹」
安心する声です。誰かに気にかけてもらえるのはいつぶりでしょう。

気がついたら、窓からやわらかな陽がさしこんでいます。私はソファで眠っていたようです。おかしな体勢だったにもかかわらず、体はすっきり軽くなっています。久しぶりに深い睡眠ができたようです。
部屋を見渡すと、羊はどこにもいません。
ただ、テーブルの上にこんな紙が置いてありました。
「ゆたんぽ かったほうがいいぜ」
なるほど、と思いました。

窓を開けると、そこにはきちんと冬がいました。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?