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188 見えない相手の笑顔が見たくて

「リモートワーク」という働き方を始めて、10カ月ほど経った。
私の仕事は、主にコラムを執筆したり、専門用語や法制度の解説文を書いたり、文章の校正を行うことである。知人には「フリーライター」と言われるが、そんな大層なものではなく、頼まれた文章に取り組む「書きもの専門の内職屋」の方が正確だ。数社と契約しているが、どの会社も私の住んでいる地域外にあるため、仕事のやり取りはメールかビジネスチャットで行う。
 
リモートワークを始めて感じたことは、だれかと直接会わずに仕事をする気楽さである。会社に勤めていたときは、日によって天気のように機嫌が変わる先輩がいたし、顧客対応は相手がどれほどいい人でも気疲れをしていた。毎日多くの人と関わることに少々うんざりしていた私には、他人と会わずに仕事ができる状況は喜ばしいことだった。リモートワークができる時代に感謝しつつ、弾む気持ちでパソコンに向かっていた。
 
ところが、リモートワークのむずかしさを痛感することできごとが起こった。
リモートワークを始めて半年ほど経過したころだろうか。契約をしているうちの一社と、メールの文言からちょっとした思い違いがあり、衝突が起こったのだ。
会社員の時は、「読む側の負担を考慮して、メールの文章はとにかく簡潔・短文にしなさい」と教えられてきた。とはいえ、このメール作成方法をリモートワークの際に採用すると誤解が生じる可能性がある。そのことはわかっているつもりだった。
しかし、どこかで「シンプルなメール」を意識しすぎていたのかもしれない。
あとから考えると、自分の想いを書いた一文をメール送信前に不要と判断して削除しなければ、トラブルは防げたのだ。
 
トラブルがあってから、変わったことが二つある。
一つは、文が長々としていることは気にしすぎないこと。原稿の構成につける補足文もメールの文面も、できる限り丁寧に書くことにした。読む人が大変かもしれないと思っても、いざこざが起きた方がお互いに負担がかかる。脱線や余談は省くが、必要なことは少々長くなっても書いておく。「わかってくれるだろう」と、解釈を相手任せにしないことを心がけるようになった。
 
もう一つは、「先方がどう思っているかわからない」と、たびたび感じるようになったことである。
例えば、原稿を提出したあと、担当者から連絡が数日こない時。もしかして、私は大きな勘違いをして原稿を書いてしまったのかな、あのメールの書き方は失礼だったかな、などと理由もなく思ってしまうのだ。
トラブルがあった会社とはすぐに和解ができたが、また問題が起きるのではないかと思ってしまうし、いつしか他の会社に対しても同じように憂慮するようになっていた。

さらに、「読んでよかった」と思う文章を目指して書いているつもりだが、実際は読者からどう思われているかわからない。私が書いた文章の先にはたくさんの人がいるにも関わらず、全員の顔が見えないことの恐怖が不安に拍車をかけた。
中が見えないトンネルに向かって、一方的にボールを投げ続けている気持ちだった。
 
会社員時代は、先輩や顧客の姿を見てわかることがたくさんあった。表情や雰囲気、状況など、言葉にしなくても伝わるものがあったし、心配なことは口頭でさっと聞くこともできた。そのような、ほんの数秒の会話や言葉以外のものが仕事をするうえでの心配を解消していたのだ。
 
見えない相手と仕事をする不安をだれかに言えるはずもなく、トラブル後は重たい心を抱えながら、ひたすら与えられた仕事に打ち込んだ。
これまで以上に丁寧に、間違いなく、向上心を持ってひとつひとつ原稿と向き合った。
それでも、不安は雲のように心の中に浮かび続けた。
 
そういった日々を過ごしていると、契約をしている会社が突然原稿料の引き上げをしてくれた。理由は、「原稿の質が高く評判が良いこと。メールや提出物に工夫がされていて、円滑なやり取りができるため、当方の負担が少ないこと」とあった。
そして、メールの最後に「社内一致で決まりました。いつも細かい気配りに助けられています。これからもよろしくお願いします…!」と書いてある。
 
このメールを見たとき、パソコンの画面、だれもが使う同じフォントから先方の笑顔がたしかに見えた。原稿料が上がることよりも、私がメールや提出物の工夫に込めた思いが伝わっていたことがうれしかった。
そして、さらっと「評判が良い」と書いてくださったこと。その短い言葉を何度も読んだ。目に見えないだれかに私が書いたものが届いていることの奇跡を改めて感じ、胸がいっぱいになった。
 
パソコンの先には人がいる。見えなくても、私の仕事を見て評価してくれている。トンネルの先で、私が投げたボールは誰かがちゃんと受け取ってくれていたのだ。
 
見えない相手のことを想像することは、むずかしい。だからこそ、伝える努力が必要である。それがすべて相手に伝わるとは限らないが、伝わることがあるのも事実だ。
見えない相手の笑顔を感じたときのよろこびは、リモートワークならではのものだろう。
 
これからも、パソコンの先にいる人を意識して、キーボードを打っていこう。
そう思って原稿に取りかかると、心なしか指先が軽くなったような気がした。


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