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立川炭鉱(佐賀県)の面影 その2

佐賀県伊万里市大川町立川、大日鉱業㈱が昭和期に長く操業していた中堅の炭鉱である立川炭鉱について、排気坑口のほかにいくつかの遺構を目にすることができた。立川炭鉱の記念碑に刻まれた炭鉱施設の所在地をもとにそれらを確認してみる。

本坑口のほかに新坑口と刻まれてているが、これらは文献の内容と照らし合わせて、本坑口が昭和11年開坑の第一坑、新坑口が昭和38年開坑の第二坑であると思われる。昭和22年の航空写真は、その第一坑で本坑口の様子がうかがい知れる。

開坑から11年後、昭和22年の様子

石碑に刻まれた情報から山神社(現寿光寺不動院)へ行ってみた。そばには炭鉱創業時からある大溜池がたくさんの水をたたえていた。景色のいいところであった。水際の参道を登ると、複数の祠が鎮座している。

山神社

山神社の境内に、立山炭鉱の本坑口の扁額が綺麗に保存されていた。また、そのサイズも大型であることに気づく。本坑口には開坑年月も刻印されていた。文献にある通り、昭和11年と刻まれていた。閉山後鉱業所跡は整地されて坑口も解体されたようだが、炭鉱の象徴ともいうべき坑口の扁額が綺麗に保存されていることに感激する。

山神社に保存された立川本坑の扁額

本坑口の付近には排気竪坑の跡が遺っていたが、その付近にさらにコンクリート製の構造物が遺っている。藪に覆われて大変おどろおどろしいのだが、近づいてその正体を確認してみる。間近で見るとかなり大きめで、奥に空間が続いている。天井に梁があり柱には天井クレーンの支えの跡も見られた。

竪坑に見えなくもない、新坑口跡?

内部を確認すると、一寸のところで行きどまり、そこで空間は終わる。足元は土砂で覆われている。まさかとは思うが、この構造物の正体は新坑口(第二坑)ではないだろうか。新坑口(第二坑)は昭和38年開坑と新しく、コンクリートの様子からも比較的新しい施設だと感じる。真四角の空間に竪坑の雰囲気を感じるが、これが坑口であるという確証はない。

セメントの構造物は新坑口(第二坑)なのか?

また、ボタ山の方角にはセメントの四角い構造物が藪の中から姿をのぞかせている。近づいて確認したいところだったが、大変な草木と藪に阻まれて、遠くから観察するほかなかった。

ボタ山のふもとにある構造物

軒が見えるので人が入る建屋かと思ったが、周囲を広く見渡すとボタ山へ通じる運搬路が見える。位置関係から察するに、ボタ捨てのためのポケットではないかと考える。ポケット上部よりボタを入れ、下部よりトロにボタを積載し、ボタ山頭頂部へ運搬する仕組みである。

正体はボタ捨てポケットの跡か?

閉山より11年経過した航空写真に、上記の遺構を確認してみた。竪坑のような構造物は、やはり新坑口ではないだろうか。また、ボタ山ふもとの構造物もその位置関係からポケットのようである。排気坑口のあとも分かりやすく確認できる。本坑口の跡に隣接して設置されていた。

閉山から11年後、鉱業所跡は整地がすすんでいる。

立川炭鉱は、生産した石炭は、空中索道にて国鉄筑肥線(昭和10年開業)大川野駅まで運搬していたらしい。索道は駅の施設まで一直線だったらしく、その痕跡は航空写真で確認することができる。

開坑から閉山まで30年余りと比較的長く、石炭産業斜陽化のなか機械化を進めるなど生き残りを図るなど、意欲的な炭鉱であった。また、事故も多く数多くの犠牲者も生まれた。その炭鉱の痕跡は、近年急速に姿を消しつつあった。

立川炭鉱 略歴
昭和11年 第一坑開坑 大日鉱業㈱
昭和38年 第ニ坑開坑 大日鉱業㈱
昭和45年 閉山


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