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「ガラスの動物園/消えなさいローラ」

 公演期間中に感想note書き上げるの珍しくな〜い?(公演期間が長いのと珍しく2日目と早い時期に観劇したからですね・・・・・・)(それでもnote書き上げるのに10日近くかかっているし、なんならおかわり観劇の行きの電車でも書いてる)(もうチケット残ってないのよ)
※全部書き上げたのは12/5です。もう全て終わってる


 ワンチャン追加したくなった時のために・・・・・・と和田ローラ初日のチケットを取った自分、天才すぎん?(追加した)


「ガラスの動物園」は公演情報が発表された1月末に小田島雄志訳を、9月に今回の公演脚本のベースになっている田島博訳を、「消えなさいローラ」も戯曲を何度か読んだ上での観劇です。


 開演前BGMが「戦争の知らない子どもたち」→「坊や祈っておくれ」。「花・太陽・雨」で開幕(客入れ客出しで「さよなら世界夫人よ」)。
 ※追記(11/16)めっちゃ曲の抜けありますね。聴き取りはもう諦めました
リリース年を調べてみたらどれも渡辺えりさんが、山形県民会館で文学座の「ガラスの動物園」に心を打たれた1971年辺りで、当時の記憶を思い起こすような選曲なのではと感じた(最初の2曲は「平和」の方が強いかもしれない)。


【ガラスの動物園】


【二本立て上演故の伏線?】


 てかさー、アパートの壁に貼ってあるお父さんの写真が紛れもなく尾上松也さんで、最初席に着くとき目に入って笑っちゃったんだけど・・・・・・シンプルにキツくね?(トムが父親と同じ道を辿ることがはっきりと示唆されているという点で)

 物語を語り始める直前にトムが口でワインの栓を抜いたり、姉弟で仲良く会話している所をトムが席を立っても、ローラはそれを引き留めきれず一人座ったままだったり、「ガラスの動物園」と「消えなさいローラ」の内容を知った上で、まとめて一つの作品として観劇する視点からだとかなり、「うっ」となるようなメタ表現があってとても面白かった(美優は地獄を地獄とはっきり理解して、「観客を苦しめるぞ!」という気持ちで描いているシーンがあると顔を歪めながら手を叩いてしまう)(劇場では叩かない)
 ※わだともの輪 2020年12月放送回を参照


【ほんとここ好きだよね・・・・・・(呆れ)】


「象徴」として紹介される「青年紳士」の襟足と首とワイシャツとコートとのひな祭りの菱餅みたいなコントラストが好きすぎた。観劇後急いで書いたスマホのメモに「幸か不幸か」って書いてあった(伝われ)。行こうか福岡


【ウィングフィールド家について】


トム

 いままで触れてきた「家族愛」の作品って、「お兄ちゃんだから妹を守らなきゃ」が多くて、田島版の誤訳を見たときに「やっぱりトム、お兄ちゃんじゃん!」ってなるくらい戯曲の文学青年トムはお兄ちゃん感があったけれど、松也さんのトムは正しく弟だったなと思った。ちょっと頼りない感じ?『あ〜〜も〜〜!!!!』って言ってる感じ。成人しても、家の大黒柱になってもアマンダが世話を焼きたくなる気持ち分かる。なんならローラもトムに対して世話焼き発動してない?


アマンダ
 戯曲を読んだ時は神経質そうでちょっと取っつきにくいように感じたアマンダだけれど、渡辺さんのアマンダはかわいい肝っ玉母さん。パワフルで全力のおっっっっっっっきな愛情でトムはお腹いっぱい。だからこそ、下降していくしかないウィングフィールド家の現実が余計辛く見える(アマンダがいわゆる典型的な毒親タイプだったら「これ、お母さんが悪いよ〜」と感想を着地できるが、肝っ玉母さんタイプなので「みんな頑張ってるのになんで・・・・・・」になって辛い)。トムはアマンダの過干渉というか世話焼きというかお節介というか、「それ」よりも「芸術への無理解」がキツくて抜け出したんだろうなぁという解釈。アマンダのおしゃべりをローラはうんうんと頷きながら聞いていて、十八番おはこのブルーマウンテンのお屋敷を訪れた「青年紳士」の話で「ベイツさん!」と相づちが打てるくらい今までしっかりと聞いていたのに対して、トムの場合は聞き流していただけ(+「追憶」の創造者)なのでバイオリンの演奏で早回し。上手いなぁ〜。



ローラ
 吉岡里帆さんのローラは、ポスタービジュアルのおしとやか薄幸お姉”さん”とは違って(別役さんがローラを自閉症とはっきり解釈して「消えなさいローラ」を書いたっぽいのでそれ故か)、脚の障害を目立たせないように息を潜めるようになってしまったものの、心を開いた相手の前では心根の活発さが出てくるお姉”ちゃん”だった。思っていた以上にトムと仲が良かった。テネシー・ウィリアムズも姉のローズと双子みたいに仲良しだったみたいだから、そもそもそんなに年齢差感じるような距離感じゃないのかも(2歳差だしね)。

 酔っぱらって寝落ちするトムにローラがかけてあげる桃色のショールは魔法のスカーフの代わり?トムが釘付けになった棺桶から抜け出す魔法をかけたのは棺桶に残されてしまうはずのローラなのだろうか。

 トムとローラに限らず、ウィングフィールド家が基本的に予想以上に仲良しでみんなでぎゅーっ!って感じで、だからこそやりきれない気持ちになる。「ガラスの動物園」完全所見の人、大丈夫だったんでしょうか。ラスト、後ろから悲鳴漏れ聞こえてきたよ。

 戯曲を読んだ時から「可愛いお月様」のシーン(第一幕第六場)が好きなんだけれど、本当に仲良しウィングフィールド家すぎて泣いちゃった。アマンダがローラを抱きしめた時に、ローラが持っていたお皿と布巾をトムが受け取るんだけど、すぐにローラが取り返すの何の表現かなぁって考えてる。両手に物持ってたらアマンダのこと抱きしめ返せないよ、ローラ・・・・・・。


【ジムについて】


 琢磨さんのジムは、通路を歩いてきた時のあまりのハンサムオーラでひっくり返りそうになっちゃった。陽と陰じゃないけれど、トムとタバコ吸ってる時の「何者にもなれなかった自分」について思いを馳せるときの絶妙な表情が「和田琢磨といえばコレだよ〜〜〜〜!!!!優勝!!」ってテンションになりました。空を見上げて紫煙を吐き出したときのシルエットが綺麗すぎた。でも、ジムってとんでもないハンサムとかthe王子様ってキャラじゃなくて、ベースは「ただの良い人」。その要素がしっかりと説得力を持っていたので、小田島版を読んだ時とも、田島版を読んだ時とも違う、人間の血が通ったジムを観ることができた。これが渡辺さんが仰っていた「山形人特有の純朴さ」?

 戯曲を読んだ時は若干遊び人っぽいギザなやつに見えて、「ジム〜!それは不義理!お前のせい!」と思ったけれど、琢磨さんのジムは「どうしようどうしよう」の慌て方と、(ああこの人は人間のことが好きなんだな)←上位種存在か?って振る舞い方で、さらに「誰も悪くないのにどうしてこうなった・・・・・・」感が強くなってより物語が救われない。


 そういえば、ジムのモデルって誰だろう?テネシー・ウィリアムズの親友?憧れの人のモンタージュ?と思って調べてみたら、ウィリアムズ本人の脚本家としての低迷期とそこから這い上がってきた頃が投影されてるって論文(「テネシー・ウィリアムズ:その作品の中の自画像」丸田明生)を見つけた。トムはウィリアムズ個人の姉への愛情と姉を救えなかった未練、ジムはウィリアムズの作家人生の象徴だとしたら、トムとジムは鏡合わせ?陰と陽?対の存在?まぁ、ニコイチってことだよね。語り手であるトムが干渉するタンゴは、トムの追憶の中に置いてきたウィリアムズのアイデンティティ(未練と自信)と向き合っているようだな、と思った。

※追記:トムとローラのタンゴ、すっと離れていくローラ、ローラを支えていた腕を動かさないまま静止するトム、その腕に納まりに行くジム。トム→ジムの「憧れ」が幻想の中で形を成した、という解釈よりも、トムジムニコイチ(?)派の私は、ローズを救えなかったことが、不本意にも『ガラスの動物園』と『欲望という名の電車』の製作とヒットにつながり、トマス・ラニア・ウィリアムズを劇作家テネシー・ウィリアムズとしての成功に導いてしまったことの現れかな、という方がしっくりくる。

トム=トマス・ラニア・ウィリアムズというひとりの人間
ローラ=姉ローズ
ジム=劇作家テネシー・ウィリアムズ

「トムがゲイ」←わかる
「トムがゲイであるという描写を劇中でしたい」←わかる
「劇中で出てくる男性はトム以外にはジムしかいない」←そうだね
「だからトムがゲイだと描写するために恋愛感情をジムに対して抱かせる」←ジム!?
確かにジムしかいないけれどジム!?、となっている。ほかにやりようがないのはわかるけれど、なんというか、ジムのモデルがウィリアムズ本人って気づいてからだと解釈違い・・・・・・ってなる
(追記おわり)


 ウィリアムズ自身が自己投影させているジムだから、ローラに「恋愛」という形での愛情を向けるシナリオにはならなかったのかな(「君みたいな妹がいたら」のセリフ等々)。父親の失脚からの失恋コンボで精神状態を悪化させたローズを想って書き上げた作品で、ローズがモデルとなっている人物が恋愛成就!ハッピーエンド!だったら確かにローズ本人の気持ち的にどうなん?とは思う。それよりも、ウィリアムズが自身の経験を物語に昇華して、第三者視点から自分に起きたことを見ることで、納得というか、落ち着くというか、理解しようとした、そのための「ローラの失恋」「トムはローラを救えない(皿洗いをしていて悲劇に間に合わない)」なのかな。

【無色めいた僕の声も】


「明かりがとても好きなんですの、その子!」まるでローラのよう。ガラスのように繊細な心の持ち主、というだけではなくて、明かり=自分自身の幸せではなく他者の幸せを望む様が。ガラスの動物たちは決して自ら輝いているのではなく、他者の明かりを受けて美しく輝き、加えて受けた明かりを増幅させる。

 すごく個人的な話なんだけれど、観劇前夜(といいつつ遅番後オールしているので当日朝)に聞いていたラジオのTKさん(凛として時雨)のインタビューで話していた『何色でもないもの、それ自身がそうでないもの(=無色)でも鮮やかさで満たすことってできるのかな』という話題をそのシーンで思い出した。自分自身が「何者でもない」と感じていても、他者にとっては大切な輝きと成り得るのだろうか。
 ※このnote読んでる人、(凛として時雨)の補足要らないと思うよ



 そんなこんなで「自分」と「他者」の存在について考えざるを得ない「消えなさいローラ」に話を移したい。


【消えなさいローラ】


 まー、同じセリフ・ストーリー展開なのに、演出と人が違うだけでここまで物語が受け取る印象が変わる・変えられることってあるんだなぁとしみじみ。まだ渡辺えりさんの回だけ観劇できていないんですけどね。


【作品そのものに関して】


 最初、戯曲を読んだ時は「別役実は何を思ってこれを書いたんだ?」と大困惑したんだけど、松也さん演じる「男」の「やめましょう、あなた、もう待つのは・・・・・・」の悲愴感が強くて(ただ依頼されて「女」に接触しているのではない、何か個人的な感情があるような感じ)、この「男」はトムでもウィリアムズでもなくて別役さんなのかな、と思った。「ガラスの動物園」に触れてローラに想いを寄せた別役さんはローラを幸せにしたかった。でもトムが帰ってくることは考えられないし、アマンダの命もそのうち尽きる。それを覆したハッピーエンドを書くことは「ガラスの動物園」とローラを冒涜することになる。だからせめて、永遠の物語の中で「待つこと」から、釘づけの棺桶である「家族」からローラを解放(というよりも切り離すがニュアンス的に近いかも)しようとしたのかなと思った。「俺が○○ちゃんを幸せにするんだ!」という勢いがあるものの、「そんなの○○ちゃんじゃない!」となる夢属性かつ面倒なオタクムーブ(一気に俗っぽくなってしまった)。
 私も羽佐間翔子ちゃんを幸せにしたいです‼️
 翔子ちゃんにこっち向いて欲しいけれど、一騎くんに恋してない翔子ちゃんは解釈違い……

「家族」からの解放は、作中でアマンダがトムからローラ宛に残されたワインを「本当は自分宛だ」と疑って、まるでトムからローラへの愛を横取りするような描写が「アマンダ母さんそんなことする?」と引っかかってしまって・・・・・・。ジムの求婚しかりトムの死しかり、ローラがその相手に依存しなくなる(できなくなる)理由として書いたのかな(渡辺さんのアマンダが朗らか肝っ玉母ちゃんだったから、そんなことしない!ってなるのであって、もっとヒステリックで神経質なThe毒親的アマンダ像だったらその行動も納得できるのかもしれない)。

 どのようにしてアマンダとローラが死に至ったか(カラフルなドレスのまま寄り添う二体の遺体があったからこう解釈できるのであって、戯曲からローラが既に故人であることは読みとれないので、今作特有の解釈かもしれない。そもそもしばらく二人で生活していたのに遺体がドレスなのはおかしいので、ジムを招いたあの夜にウィングフィールド家は”死んだ”(=時が止まった)」の比喩かもしれない)はさほど問題ではないんだろうな。
 人間、1人では生きていくことはできない。これは「みんな助け合ってるんだよ〜」というお花畑な話ではなくて、他者に己を認識してもらわないと気が狂うから。ローラの場合、「待つ=何もしない=誰かの指示を断り続ける」ためにもう1人必要だったってのがあるけれど。

※追記:ラスト下手の薄い幕越しに見える骸骨が、吉岡さん回がローラとアマンダ、渡辺さん回がアマンダなのは覚えているのに、唯一2回観たはずの琢磨さんの回だけ記憶にない。『ガラスの動物園』ラスト、トムが出て行った部屋でうなだれるアマンダとローラ。先にアマンダがゆったりと舞いながらその場を離れ食卓の椅子に座る。ローラは「待って」とでも言わんばかりに離れていくアマンダに手を伸ばす。アマンダの死後もまるで彼女がそこにいるように、彼女が口うるさく話していた生活習慣はウィングフィールド家に残留する。
(追記おわり)


【和田琢磨さん「女」回について】


 初見がこれってかなりアレ(上手く言えない)だったのでは?と観劇後に思った。なんというか、新解釈「消えなさいローラ」という気がして。カレイベでの琢磨さんの話から、琢磨さんが「男」ではなく「女」役になるのは、トムの「追憶」の中に残されたのはローラとアマンダだけではなくジムもだから、という解釈というのは分かってはいたけれど、あまりにもジムが強い。ジムを演じた琢磨さんが続けて「女」を演じるが故の演出であって、「消えなさいローラ」単独で松也さんと琢磨さん二人同じキャストでやってもこの演出解釈には至らないんだろうな。今回、「ガラスの動物園」「消えなさいローラ」ともに渡辺さんの作品への思い入れとか、2023年の要素とか、「今」だから「渡辺さん演出」だから、含有されている作品の意味やメッセージが多くて、今まで数多く上演されてきた「ガラスの動物園」の中でかなりユニークなものだったんじゃないかと思う。初演から80年も経つと、作品ってこんなに色んな想いを背負って変容していくんだなぁと。戯曲そのものは変わらないのにね。

 琢磨さんの「女」はローラの肉体をうつわとして、ローラとアマンダの魂が互いに主張し合っているように見えた。「ローラ!」「はい!」で一人芝居っぽく顔の向きを変えてた気がする。ローラとアマンダは完全な別人格。そのうつわであるローラの中に残っていたジムが顔を出してくるような。「女」がジムになる様子、初日が琢磨さん汗だくだったのもあって、孵化でも脱皮でもなく、赤子が羊水にまみれているほ乳類の出産じみていて、かなり肉(?)の要素があって不気味だった(「女」から生まれてきたので・・・・・・)。やたら色っぽかったのはたまたまなのか、「憧れ」要素なのか・・・・・・たまたまだろうな。

「男」とジムの姿をした「女」との対話は別役実とテネシー・ウィリアムズの思考が、それぞれの作品の登場人物の言葉を借りて対話しているように見えた。まだ青いドレスを着ている時だけれど、「(トムは)ホモなんです」と「男」をテーブルに押し倒して力を誇示することで、ただのか弱い・消えそうな女ではなくて対等の存在になったような気がした。

 終盤出てくるローラとアマンダ・・・・・・といっていいのか、吉岡さんと渡辺さんといっていいのかの解釈をいまいち咀嚼できていない(渡辺さんのツイート曰く「記憶の中のアマンダとローラ」。誰の記憶?いや、誰のものと特定することもできない「追憶」の中に漂っているものかもしれない)。二人の咎めるような視線が「男」を向いているのであれば、「お前(男)に何が分かる」のような感情だろうなと思うのだけれど、その視線が「女」を向いてるの分かんねぇ〜!




【吉岡里帆さん「女」回について】


 私が戯曲を読んだときのイメージに一番近いのは吉岡さんの「女」(演者のメタ表現の少ないスタンダードな演出というのもあるのかもしれない)。思っていたよりじめっとしていない朗らかな「女」だったけれど(ギャグテイストのメンヘラ?ちょっぴりホラーなラブコメ感)。ローラが不自由な肉体の器から解放されたら、脚から生まれたコンプレックスも無くなって、きっとアマンダそっくりの、心配性だけど行動力たっぷりで愛にあふれた人間になるんだろうな、そう思わせるほどアマンダとローラの境目がシームレスなのが吉岡さんの「女」の特徴だな、と思った。やっぱりウィングフィールド家の親子ってそっくりなんだよ・・・・・・。

 ローラとアマンダが溶け合った「女」が基本形態で、そこから不安定にローラ側に寄ってみたりアマンダ側に寄ってみたり。「男」に問いつめられたときにローラがよく顔を出してくるのはなぜだろう。



渡辺えりさん「女」の回が山形公演で観劇するからまた後で追記する(琢磨さんおかわり回もあわせて)(以下すべて15日マチネ&山形公演観劇後の追記)

【追記】

【銀色のお月様にお願いごと、からのお皿とハグ】


「何をお願いするの、お母さん?」「あんたの幸せを、だよ!」いや、ほんと、このシーン好きすぎて戯曲読んだ時も泣いたし、観劇でも4回中4回み~~~~んな泣いてますね・・・・・・。洗いかけのお皿を持ちながら戸口へとやってきたローラを抱きしめるアマンダ。ローラからお皿を受け取り、2人を抱きしめるトム、ハッと気づいてトムからお皿を取り返し、アマンダを抱きしめるローラ。お皿とハグはウィングフィールド家という棺桶の証?トムはひとりそこから抜け駆けしようとしていた自分をローラへの愛から恥じ、沈みゆく船であるウィングフィールド家に3人で居続けようと心変わりする(ローラとアマンダを抱きしめる)。だがそれがトムの本心ではないことをローラは見抜いていた。ローラはトムからお皿を取り返し、トムが棺桶の中に入っていくことを拒絶する(=トムが棺桶から脱出することを手助けする)

【ジムもローズへの愛の具現化では?】


 食卓の上の黄水仙は、ローラとジムが心を通わせていく中で青薔薇ブルーローズへと変わる。家の主はアマンダ黄水仙でも、この追憶の主役はローラ青薔薇だ。
 ジムがローラに向かって伝える歯の浮くような甘ったるい言葉たち。ウィリアムズが「弟」として面と向かって姉ローズに伝えられなかった言葉たちなんじゃないかな、と思った(ウィリアムズとローズが「きょうだい」以上の愛でつながってた的な研究もあるけれどそこは別に関係なく。だって気恥ずかしくない?自分の家族を褒めるのって)。自分が姉に直接伝えにくい言葉、作品の中とはいえ、自己投影色の強いトムだってローラに言えない。だから自分と異なる姿をしていて、代弁者になってくれるジムがトム&ウィリアムズの代わりに、ローラ&ローズに愛を伝える(そんでもって恋愛関係にはなれない)。てか、ジムがウィングフィールド家の外に出たとき、5日は気まずさから逃げ出すようにそそそっという感じだったけれど、16日はドアノブを掴んだまま俯く→沈鬱な無表情のまま帽子を被りゆっくりと歩き出すに変わった(?)ような気がする。山形公演もそんな感じでした。
この沈鬱な無表情は美優さんがとんでもなく好きな”アレ”である
 このときジムとローラが視線は交わらないものの向かいあっている構図になっていて、そこからローラがジムよりも先にその場から離れるというようになっていた。ジムはローラ個人のことを角の折れたガラスのユニコーンとともに心の棘として刻み続けるけれど、ローラはジムと恋仲になれなかったことよりも「他者の幸福よりも自身の幸福を望んではいけない」とはっきり認識してしまったので、この夜のことを対ジム”個人”としては未練がましくは思っていないのでは・・・・・・。
 でも『消えなさいローラ』に「ジムからの求婚をローラは断るよ」の下りがあるけれど、これは別役さんの「ローラを幸せにするのはトムでもジムでもねェ!この俺だ~!!」的なアレを感じる(私がそういうタイプの夢女子だから?)(割とローラモンペオタク仕草だな、と思ってしまった)。でもジム→ローラの人間愛的な愛(非恋愛)のモデルはウィリアムズからローズへの愛だから、破局で心をやんだローズの心を100%癒せるものではなかった=「女」がジムからの求婚を断る(求めている愛とベクトルが異なる)。
 渡辺さんのツイートにあったジムがその後戦争に行き、家族(ベティ?)と別れ、仕事もキャリアプラン通りにならず・・・・・・というのを考えると、『ガラスの動物園』の登場人物はみんな下り坂気味の人生を少しでも平らにしようとして空回ってもっと下り坂にしてしまっている。

【『ガラスの動物園』と『消えなさいローラ』の結婚観の違い】


『ガラスの動物園』では、「仕事で自立できないなら誰かに養ってもらうしか・・・・・・。とはいえ居候のような下の立場で上の人間の慈悲に縋ることで命を繋ぐことは惨めだ、互いを認め合った結婚ならパートナーと一対一で対等にやり合える」の手段として扱われる結婚だけれど、『消えなさいローラ』では「結婚して子どもができてウィングフィールド家の血を残す」ためになってるなぁと(「子孫のことを考えれば・・・・・・」のくだり)。戯曲執筆当時の日本が今以上に「結婚=子どもをつくる」なのに対して、アメリカは1940年代でもそうではなかった・・・・・・のかどうかはちょっと良く分からないけれど、別役さんが前者に対してウイリアムズが後者だったわけではなく、ウィリアムズは「血」を嫌悪していたのではないか、というのが私の考え。
大変どうでも良い話だが、二人とも「さん」を付けたい。西洋の名前の程良い敬称って何?
 父親のコーネリアスの酒飲みで暴力的な面をウィリアムズはかなり嫌っていたようで、『欲望と言う名の電車』で父をモデルにしたキャラクターをボロクソに貶している(らしい)(父の誠実なところは尊敬していたらしく、自分も受け継いでいたらいいなと思ってたっぽいから絶許!というほどではないかもしれない)。家族内で色々あった人がパートナーならまだしも子ども含む家族に良い印象があるか・・・・・・?単にローズ個人の幸せに目を向けていたので子孫とか血とか考えてなかっただけかもしれないが。
 『欲望という名の電車』で父親をモデルにクズキャラを描いたのに対して、『ガラスの動物園』ではウィングフィールド家から追い出し済みなんて、描きたくないほど父親が嫌だったのか・・・・・・と思っていた。けれど、Twitterで「『ガラスの動物園』はみんなトムの父親が家を出ていったことの被害者の集まり」という感想を見かけて、「あぁ、嫌悪感をはっきりと描写しているわけではないけれど、ウィリアムズは『ガラスの動物園』で父親を加害者に仕立て上げたんだな」なーんて思って腑に落ちた。

【『消えなさいローラ』記憶の中のローラとアマンダ(和田回)】


 これマジでわっっかんねぇ~~~~!16日は無表情で「女」のこと、じっと見つめたり追い回したりしてたけど、話聞くと和田「女」千秋楽の19日は笑いながらドタドタ走り回ってたらしいじゃん。
 とりあえず、「女」がアマンダとして電話している時にはローラが、ワインの話をしている時?ローラとして話してる時はアマンダが、自我が混濁している特は二人が出てきていた。本当にわからないんですけれど、コレって「女」の自我の中で薄くなった方が「女」の体から抜け出して、”他者”として存在するようになったんじゃないでしょうか。他者に認識される・他者を認識することで「わたし」が生まれる。ローラはアマンダに「ローラ!」と呼ばれるからローラであり続ける、ローラでいられる。
 じゃあ、和田「女」って何者?ローラ+アマンダ、時々ジムと個々がはっきり残っている訳ではない、もはや有象無象?偶像?

【目!目が死んでる~~!!!!ウッヒョー】


 琢磨さんの「女」、1ミリも笑わないんですよね・・・・・・。残像が見えるようなあんなに派手なリアクション芸かましているのに、目尻に笑い皺が浮かぶことは一度もない(はず)。単純な「目が笑ってない」よりも歪で異形じみていてシンプルに怖い。普通に観てたらリアクションに目が向くので、オペラグラスで「表情観るぞ~!」ってしたらこれよ。怖いよ。「女」からジムが出てくる様も、幻想的な羽化ではなく、内蔵がずるっと出てくるみたいなグロテスクさがあって怖い(服を脱ぐ時に腕を曲げずにそのまま立ち上がってそのせいで服が離れていくから「ずるっと」感あるのかも)

【渡辺えりさん「女」回について】


 渡辺さん「女」」回、コントっぽいと感じたのは客席の反応から?でもいちばん切ないような、報われないような気がする。
山形公演で「女」の「医者には診てもらっておりません(ないです?)」が「医者には診てもらってないッス!」になってしまって、ローラやアマンダはおろかジムですらその口調になるのか!?えっ、誰!?という瞬間があって流石に笑いが堪えきれなかった。その後の水槽の中の砂を弄りながらの「ここを砂漠にしてしまおうとしている時間です(中略)その時間が、この動物たちを埋めるんです」での「女」のしゃがみ方としゃがむ直前の「あー!」の言い方(どっこいしょ的ニュアンス)、「男」に向ける視線が、ジムが部屋のすみっこにいるローラに声をかけている時の仕草にそっくりで、琢磨さんの「女」にしかジム要素はないものだと思っていたからびっくりした。

 吉岡さん「女」は話が通じない(人間ではなくなってしまっているので)、渡辺さん「女」は話聞いてるし分かってるけれどそれよりも優先したいこと(おもてなし)がある(もろアマンダじゃん)、琢磨さんは・・・・・・どうだろう。琢磨さん「女」が一番感情が読みとりにくいな、と思う。

 渡辺さんが小柄に見えるのもあって(吉岡さんより少し背が高いらしいし、なんなら私より10cmくらい高いので全っっく小柄ではないが、松也さんといると小柄に見える。それとも役柄としての小柄オーラ?アマンダの時はあまりこう感じなかった)、なんだかすごくかわいそうに見えちゃった。「部外者が首突っ込んで苦しめないでよ!」みたいな気持ち。あと、親が「テスト頑張りなさいね」と持たせてくれたお弁当を体調不良で食べられなくて腐らせてしまった時みたいな、うっ、となる気持ち。「女」がトムを想う気持ちが宙ぶらりんになっていることへの虚しさ。

 渡辺さんの「女」は多重人格というよりも、年老いてアマンダと同じ年頃になったローラの言動が素でアマンダに似ている、というような気がする(ウィングフィールド家の血?)。アマンダのふりをしているのも、「ローラ!」と呼ぶのも、生活の糧を得るため・「何もしない」をするため、ローラとしての人格が意志を持って行っていて、他2人のように追憶の中の思い出が混ざり合って「女」を構成しているのではないな、と感じた。ローラが「何もしない」を実現するために、ローラは自分の意志でアマンダに成る、アマンダとして生きるようになる・・・・・・アマンダと同じ存在になる、といえばいいのかもしれない。限りなく=に近い≒。多分、ローラよりも手に職を持っていたアマンダの方が生活しやすい上、トムが亡くなってしまったから・もう待たなくてもいいから、ウィングフィールド家(アマンダとローラのふたり)が揃っている必要がなくなったんだろうなぁと。

【ベティの解釈】


 ベティ(本名エリザベス?)は実在する派閥です。といっても、ジムの愛がローラの望んでるものとはベクトルが異なった→ローラの失恋を成立させるための、負のデウス・エクス・マキナ。だから唐突すぎて浮いてる気は、する。モデルとなったローズの失恋はローズと彼女のボーイフレンド以外の色んな要素(主に父コーネリアス)が絡みすぎてて、物語にそのまま昇華するには複雑すぎたんだろうなぁ・・・・・・。




やっっっっっっっと書き終わった!(12/5)多分もう追記しない(はず)

これで「わだともの輪」が見れる!!

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