#一歌談欒 Vol.2 理解できない人

原井さん(@Ebisu_PaPa58 )の、短歌感想文企画の参加原稿です。

http://dottoharai.hatenablog.com/entry/2016/10/23/230413


3番線快速電車が通過します理解できない人は下がって

(中澤系)


1.短歌について

 快速電車が停車する駅と通過する駅はどう決まっているんだろう。正しくはわからないけど、なんとなく想像はつく。ビジネス街にしろ繁華街にしろ、大勢の人が行き交う、利用者数の多い駅。多くの人が乗り、多くの人が降りる駅。そういう駅に快速電車は止まる。逆に言うと多くの「お急ぎのお客様」の利便のために、利用者数の少ない駅の客たちは置いてけぼりを食らう。もしかしたら目的地は快速電車の停車駅かもしれないのに、彼ら、彼女らはそれに乗ることすらできない。近づくことさえできない。っていうか近づくなよ、轢かれたらどうするんだよ。

 短歌の前半、「3番線快速電車が通過します」は、日常でよく聞く駅でのアナウンスのような文言だ。でもその後ろに「理解できない人は下がって」と突き放すようなせりふが付くことで、アナウンスの言葉の中から冷たいニュアンスが浮き上がってくる気がする。今からやってくる電車は乗り込めません。あなたとは関係がありません。っていうか敬語かつ婉曲表現で分かれよ、近づくなよ、轢かれたらどうするんだよ。

 もう一度言うけど、今からやってくる電車とお前は何の関係も無いんだ。

 誰の立場で書かれた短歌なのだろう。駅員か、それとも、駅のアナウンスから何かを読み取ってしまった人なのか。作者が鉄道関係者じゃないならば後者だろうと思うけど…。


2.永久に停まらない電車について

 唐突に思うかもしれないけど、ミシェル・ゴンドリーが監督したThe Chemical Brothers「Star Guitar」のミュージックビデオを見てほしい。

 電車の座席の窓際にビデオカメラを固定して、車窓から見える風景を延々と撮っているだけに見えるかもしれない。でも、耳を澄まして、目を凝らして…。スネアの音に合わせて架線柱や信号柱が画面に滑り込んでくるのがわかるだろうか。あるいはシンセサイザーの音が被さると同時に、線路の向こうにオイルタンクが現れるのが。そう、デジタル処理によって画面に映る風景、建造物などがすべて、音楽と同期しているのだ。

 今回の短歌を読んで最初に思い出したのが、このミュージックビデオだ。それはこれが電車、しかも停まることのない電車を描いた映像だったからにほかならない。中盤で駅に滑り込むシーンはあるが停車はせず、この映像は走り続けたまま終わりを迎える。風景は音楽に合わせた編集によって流れ続け、停まることは無い。

 この電車は停車しない。

 では、カットされた停車は、「起こらなかったこと」になるのか。

 …というかそもそも、これが停まらない電車だとするならば、この車窓の風景は誰が見ているんだ?


3.記録されない時間について

 ミシェル・ゴンドリーの話を少し続ける。

 彼はフランスの映像作家・脚本家・映画監督なんだけど、その作家性として「記録されなかった時間への意識」を挙げられると僕は思っている。

 例えば彼の代表作のひとつ『エターナル・サンシャイン』(2004年)は恋人と喧嘩別れをした男が、最新技術を使って恋人との思い出を消去しようとする話。これは言い方を変えれば「恋人との時間を丸々カットして、その前後の時間を繋いでしまう」記憶の編集作業の物語だ。記憶からは削除されたとしても、その時間は無かったことにならない。その事実が恋人たちを苦しめることにもなる。

 あるいは『恋愛睡眠のすすめ』(2006年)に登場する「1秒タイムマシン」は、たった1秒というささいな時間でも、確実に何かの変化が起きているということを示唆してくれる。

 そもそも映像を作る作業は、出来上がった本編の何倍もの時間がかかる。それらは記録されない。でも、確かにあった。普通なら映像の上でそういったことを意識させないところだが、ゴンドリーはあえて、その「記録されなかった時間」の痕跡を映像に刻み込む。

 もう一本、ゴンドリーが手掛けたミュージックビデオを見せる。The White Stripes「Hardest Button To Button」だ。この映像におけるドラムとアンプの増殖は合成ではない。同じ形のドラムとアンプを32台ずつ用意し、一台ずつ運んでは撮影、というコマ撮りの手法で撮影されている。運んでいる様子は記録されていない。しかし、1つドラムが増えるごとに、影の具合や明るさが変わり、明らかにそこには時間の経過があったことが刻み込まれている。

 通り過ぎたけど、確かにあった時間。


4.大学時代の回想

 大学時代、演劇の授業で劇作家としても活動している教授が、太田省吾について語り始めた。太田省吾は2007年に亡くなった劇作家、脚本家で、過去には岸田國士戯曲賞の審査員も務めたような人物だ。

 太田省吾は、我々は日常生活を「劇の目」で通して見ている、と言ったそうだ。例えば、本当に細やかに見ていけばさまざまな動作があり息遣いがあったにもかかわらず、取り立てて言うべき劇的なことが無ければ私たちは「今日は何もなかったなぁ」と口走ってしまう。一日の一挙手一投足をすべて文字で書けば大変な分量になるけど、それを「劇の目」は見過ごし、何もないと感じてしまう。あるテレビ関係者は「ドラマとは人生の退屈な時間を省略したものだ」と言ったが、舞台に上げるべきなのは、むしろ「劇の目」には見逃されるささやかな時間なのではないか。

 太田省吾はそんなことを言った、とその教授は語った。教授は解説を終えると教室の電気を消して、太田省吾の舞台の映像をスクリーンに流し始めた。

 舞台の真ん中に蛇口があってそこから水が流れている。舞台上手からコップを持った人物が現れ、普通に歩けば数秒の距離を何分もかけて進む。ゆっくりとゆっくりと。

 コップが差し出され、水の流れを止める。

 延々と聞こえていた、水の音も止まる。

 静謐。

 普段は見逃してしまう、無かったことにしてしまう時間を、大学の教室の暗闇の中で見た。

 ちなみにその劇のタイトルは「水の駅」という。


5.そして、理解できない人と化す

 僕は何を書こうとしているのか。

 自分でもわからなくなってるけど、「快速電車」と「停車されなかった駅」は、あるいはそれぞれの利用客は本当に何の関係も無いのかが気にかかっているのかもしれない。

 快速電車に乗っている客は、停車しなかった駅と無関係なのか。

 停車しなかった駅の客は、快速電車と無関係なのか。

3番線快速電車が通過します理解できない人は下がって

 アナウンスが聞こえる。この電車と、お前は無関係だと言っている。


 本当に?

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