#一歌談欒 Vol.1 目に見えない何かと私

原井さん(@Ebisu_PaPa58 )の、短歌感想文企画の参加原稿です。

http://dottoharai.hatenablog.com/entry/2016/10/10/233037


おめんとか

具体的には日焼け止め

へやをでることはなにかつけること

(今橋愛)

1.

 この短歌を読んで最初に思い出したのはコラムニスト・作詞家でラジオDJもやってるジェーン・スーが言ってた「女性にとって寝起きのすっぴんは警察に捕まったときに撮られるマグショットと同じ。女性は毎朝、メイクをすることによって自分を社会に釈放しているのだ」という話。あー、女性というのは大変だなぁ、俺なんか顔洗うどころか寝癖ついたまんまで仕事に行くのになどと思ったりしたものだ。

 でも、この短歌における「なにかつけること」は、社会へ出るための私をセッティングするみたいな話よりもっと手前で、もっと切実な話な気がする。なにせ、「なにかつけること」の具体例として挙げられるのが「ファンデーション」でも「マスカラ」でもなく、「日焼け止め」なのだ。

 日焼け止めを付ける目的は「紫外線から肌を守るため」であり、となると、「なにかつけること」の目的は、私の身を(目には見えないものから)守ることだ、と思い至る。

 しかもその危険にはいつでもさらされてしまう。「日焼け止め」という言葉との兼ね合いを考えると「そとへでることは~」となりそうなところを、この短歌は「へやをでることは~」としている。「そとへ」よりも「へやを」。よりパーソナルなスペースに限定された表現。ひとたび「私」の空間から外に出てしまえば、目に見えない何かが私を傷つけるのだ。

2.

 ここで僕は、ひらがなと、漢字の使い分けについて考える。

 この原稿はいまパソコンで書かれているんだけど、例えば「この原稿はいまパソコンで書かれているんだけど」と書くためには一度「このげんこうはいまぱそこんでかかれているんだけど」とひらがなの状態で打ち込んで、そこから変換して「この原稿はいまパソコンで書かれているんだけど」としなければならない。ひらがなで現れた音をどう変換するか選択することによって、文章の意味を決定する作業を僕はパソコン上で行なっている。

 この短歌は3行のうち2行目だけに漢字が用いられている。

「具体的には日焼け止め」

 なんてったって「具体的には」なんだから、ひらがなだけではまずいのだ。より意味が伝わるように変換が選択されている。それに、日焼け止めは外に出る時つけるものだということも、その目的もみんなが知っているのだ。「紫外線を浴びすぎると肌が老化するし、皮膚がんのリスクが高まる」ということは毎夏、繰り返し喧伝されてる。日焼け止めのCMでは矢印型になった紫外線が肌に降り注いでは跳ね返されるビジュアルを何度も流している。漢字に変換し、1つの意味を選択できる事柄だ。

 逆に言うと「おめんとか」「へやをでることはなにかつけること」は漢字に変換できずに、音として存在している。こういうことだ、と選択できない、意味として決定しきれない感覚。誰かに言っても、「は?」とか「はぁ」とか言われかねないから、1つの意味には固定しきれない。しかし、確かに存在する感覚だから、それをわかってもらえるように、「具体的には日焼け止め」という例が持ち出されたのだと、僕は思う。

――わかんないでしょ、目に見えない何かによって損なわれる感覚。だって目に見えないんだもんね。でも、あるんだよ。紫外線が肌を焼くように、何かに傷つけられるんだ、私は。

 だからなにかをつけなければならない。わたしをまもるために。

3.

 目に見えないけど、私を損なうものって何だろうか。

 例えば、僕は直感的にだけど「視線だ」と思う。一度外へ出れば、他人からの視線にさらされてしまい、時には、それによって気持ちが擦り減ってしまうような感覚に陥る。しかも、「視線」も「紫外線」と同じく、目に見えない線だ。

 「おめん」によってそれは軽減されるのだろうか。少なくとも自分だと特定されないなら、「自分が見られる」ということは無くなるのかもしれない。一方で自分の目線を隠せるので「一方的に相手を見る」ことも可能になる。見る―見られるの権力関係(見る者が見られる者より優位に立つ)を含めて考えると、「おめん」は「見られる」を軽減し「見る」力を強める役割としては確かに有効な感じはある。

 まぁ、そこまでのことは考えられていないんだろうけど、「私を損なう目に見えない何か」は確かにあるな、という気分はある。その感覚をこの短歌によってあらためて見つめ直すことができたのは面白かったな。

 そんなふうにぼくはこのたんかをよんだ。

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