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それは突然のことだった

 会食に出席する予定だったはずの夫が自宅に居る。なんで??「今日は会食じゃなかったの?私一人分だから、夕ご飯はミネストローネだよ」買ってきた食材を袋から出しながら言った。夫は何かを探しているのか家中をウロウロしている。「帰りたくなったから帰ってきた」と言う夫に呆れながら野菜を洗い、ピーラーで人参の皮を剥き始めた。

 仕事を早めに切り上げて会場の渋谷に向かった。途中、新橋で突然家に帰りたくなった。「今日は家に帰らなくては」会食は断って東海道線に駆け込み、横浜へ向かった。家に着くと、妻はまだ帰ってきていない。遅いな。え~っとアレはどこにあったっけ?探し物は苦手だ、家電量販店のカードが見つからない。帰ってきた妻が夕食を作り始めたようだ。「頭が痛い」そんな声が聞こえたような気がした。

 ガタンと物音がした。キッチンを見に行くと、妻が倒れていた。「あ、くも膜下出血だ」瞬時にそう分かった。携帯電話で救急車を呼ぶ。オペレーターのゆっくりな口調とは逆に自分の心拍はどんどん速くなっていく。妻が痙攣し始めた。仰向けに倒れている、気道が塞がれているのかもしれない。電話を肩と耳で挟み通話をしながら妻の口をこじ開けた。口に手を入れて舌を引っ張り上げる、酸素が途絶えたら死んでしまう。痙攣している口は閉じてきた。バキッと音がして指に激痛が走った。親指の爪が噛み割られたが舌を離す訳にはいかない、呼吸させなければ。

 救急隊が到着した。家に勝手に入ってきてくれた、ありがたい。突然倒れたと伝えると、心臓発作を疑っているようだ。くも膜下出血なのに。妻は気管挿管されてストレッチャーに載せられた。一緒に救急車に乗った。搬送先を電話で探している。なかなか決まらない。出発を待つ間に噛み割られた爪の処置をしてくれた。手が震えている。ようやく搬送先が決まり、救急車が動き始めた。

 深呼吸をして、妻の親友に連絡した。くも膜下出血で倒れた旨を伝えたが、俄かには信じてくれない。「もしかして、助からないかもしれない」これが冗談ではないことを分かってくれた。次に、妻の実家に電話した。義母に深刻な状況だからすぐに横浜労災病院に向かうよう告げる。

 助けるために必要なことは何だ?考えろ、考えろ。答えは、懇意にしていただいている医学部教授に連絡することだった。「先生、助けてください」普段とは違う僕の様子に驚かれたが、先生はこれからやるべき事を丁寧に順序立てて教えてくださった。やる事が決まれば、粛々とやるのみ。少し落ち着いて、最も伝手がありそうな知人に連絡した。会食中だったにも関わらず、彼は電話に出てくれた。「妻が倒れました。力を貸してください」率直にそう言うと、「分かりました。宛てがあります。1時間以内に連絡しますから、お待ちください」と言ってくれた。仕事はもちろん、こんな時もあの人は力強い。

 やっと横浜労災病院に到着した。救急入口から院内に入る。救急医と看護師が待ち構えていて、慌ただしく処置が始まる。家族ですら部外者のようだ。この空間で僕にできることは何も無い。邪魔にならないように廊下に出た。

 やや暗い廊下のベンチに座り、これまでの人生で最も重い覚悟を決めた。絶対助けてやる。

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