科挙の歴史【学歴社会の起源】

科挙とは

科挙とは、中国で約1300年間にわたって行われた官僚登用試験のことです。科挙は、家柄や身分に関係なく、才能や学識によって官僚を選ぶという画期的な制度でしたが、同時に多くの問題や影響ももたらしました。科挙には以下のような種類がありました。

- 秀才科:隋代に始まり、唐代に廃止された。経書や詩文の知識を問う。
- 進士科:唐代から清代まで続いた。最難関の科目で、経書や政治論などを問う。
- 明経科:唐代から清代まで続いた。経書の注釈や歴史書の知識を問う。
- 明法科:唐代から明代まで続いた。法律や刑罰に関する知識を問う。
- 明書科:唐代から明代まで続いた。筆跡や書道の技術を問う。
- 明算科:唐代から明代まで続いた。算術や測量の技術を問う。
- 宗親科・忠良科・耆老科:特別な人に限られる科目で、皇族や功臣、高齢者などを対象とした。
- 外方別科・道科:地方別に行われる科目で、地方官僚や民間人などを対象とした。

科挙は中国だけでなく、朝鮮やベトナムなどにも伝わりました。日本では養老令にも貢挙の規定がありましたが、実施されたのは数回だけでした。しかし、明治時代に入ると、科挙を原型とした高等文官試験が実施されました。また、西洋では19世紀から標準試験や高等文官試験の制度に科挙の影響が見られます。

科挙は中国の歴史や文化に大きな影響を与えた制度です。現代でも標準試験や高等文官試験の起源として注目されています。

科挙の歴史

科挙の始まりは、隋の楊堅(文帝)が587年ごろに導入したとされます。それまでは、家柄や身分によって官吏を任命する恩蔭制が主流でしたが、文帝はこれを廃止して、経書や詩文などの知識を問う試験を行いました。これが科挙の原型となりました。

唐代になると、科挙はさらに発展しました。科目は秀才科、明経科、進士科などがありましたが、最難関で最も権威のあるのは進士科でした。進士科に合格すると、高級官僚に任用される資格を得ることができました。進士科の試験は、地方の郷試と都の貢挙の二段階に分かれていました。郷試に合格すると郷貢と呼ばれ、貢挙に合格すると進士及第と呼ばれました。進士及第は皇帝から直接賞賛される名誉ある称号でした。

宋代以降、科挙は中央集権的な皇帝支配体制の強化とともに重要な役割を果たしました。官僚たちは新しい支配階級である士大夫を形成し、政治・社会・文化に大きな影響を与えました。科挙は一般に公平な試験だとされていましたが、実際には富裕層や官僚の子息が有利でした。また、科挙に合格するためには長年の勉強が必要でしたが、その内容は古典知識や型式的な文章作成に偏っており、現実社会や実務能力に関係のないものでした。

元代は中国がモンゴル人の支配下にあり、科挙は一時停止されましたが、後に再開されました。明代・清代に至っても科挙は盛んに行われましたが、その内容や形式は時代遅れとなりました。西洋列強の侵略や近代化の要求に対応できない官僚制度は危機的状況に陥りました。清末には改革が試みられましたが失敗し、1904年(光緒30年)の最終試験をもって科挙は廃止されました。

科挙のメリットとデメリット

科挙のメリットとデメリットについて、いくつかの文献からまとめてみました。科挙は中国の歴史や文化に大きな影響を与えた制度ですが、その一方で多くの問題や弊害も生み出しました。以下に主な点を示します。

科挙のメリット

- 家柄や身分に関係なく、才能や学識によって官僚を選ぶという画期的な制度であった。
- 優秀な人材を選抜するとともに、皇帝の権力を強化するのが目的であった。
- 官僚は高い地位・名声・権力・富を得ることができた。
- 官僚は宗族にも多大な名誉と利益をもたらし、宗族のために働くことが期待された。
- 官僚は地元の有力者(郷紳)として王朝の官界や地元の官僚へ影響力を行使することができた。
- 宋代までは、実際に優秀な実務者を選ぶ機能を果たし、首席合格者が有能な宰相になった例もあった。
- 科挙は今日の世界で標準試験や高等文官試験の起源であり、19世紀から欧米は西洋の学問にこのメリット・システム(成績主義)を取り入れた。

科挙のデメリット

- 科挙は非常に競争率が高く、最難関の進士科では最盛期には約3000倍に達することもあった。
- 科挙に合格するためには長年の勉強が必要であったが、その内容は古典知識や型式的な文章作成に偏っており、現実社会や実務能力に関係のないものであった。
- 科挙に合格できる者は大半が官僚の子息または富裕階級に限られ、士大夫の再生産の機構としての意味合いも強かった。
- 科挙を受験する者の中には経済的事情などの理由によって受験を断念したり、過酷な勉強生活と試験の重圧に耐えられず精神障害や過労死に追い込まれたり、失意のあまり自殺したりする者も多かった。
- 科挙は皇帝が直々に行う重要な国事だったため、その公正をゆるがすカンニングや替え玉受験に対する罰則はきわめて重く、動機や手口次第では死刑に処される場合もあった。
- 科挙は学校制度の発達を阻碍し、科挙に及第した官僚たちは古典知識や詩文の教養のみを君子の条件として貴び、現実の社会問題を俗事として賎しめ、治山治水など政治や経済の実務や人民の生活には無能・無関心であることを自慢する始末であった。

科挙のエピソード

科挙にまつわるエピソードはたくさんありますが、ここではいくつか有名なものを紹介します。

一番有名なのは、鍾馗(しょうき)という人物の話です。鍾馗は科挙に何度も挑戦しましたが、いつも不合格でした。彼は失望のあまり自殺を図りましたが、その際に自分の顔に傷をつけてしまいました。その傷が原因で、次の科挙でも不合格になりました。鍾馗は悲しみのあまり病死しましたが、その後、彼の霊は天に昇って鬼退治の神となりました。鍾馗は中国ではお化けや鬼を退治する神として信仰されています。

科挙に合格するためには、詩文や文字の美しさなども重視されました。そのため、受験者は筆跡や書道の技術を磨く必要がありました。しかし、中には筆跡があまりにも美しすぎて、試験官が内容を読むことができなかったという例もありました。宋代の詩人・蘇軾(そしょく)は、そのような理由で科挙に落ちたと言われています 。蘇軾は後に官僚として活躍しましたが、その筆跡は「蘇体」と呼ばれて書道の一派を形成しました。

科挙に合格すると、皇帝から直接賞賛される名誉ある称号「進士及第」を得ることができました。しかし、中には皇帝から罵られることもありました。明代の皇帝・嘉靖(かせい)は、科挙の試験問題を自分で作っていましたが、その問題は非常に難解でした。ある年の科挙では、全国から約10万人が受験しましたが、合格者はわずか28人でした 。嘉靖はこの結果に激怒し、「天下無才」と叫んで合格者を罵倒しました。

科挙の年齢制限

一般に、受験資格の年齢制限はないとされていましたが、実際には科挙に合格するためには長年の勉強が必要でしたので、平均的な合格者の年齢は36歳前後と言われています。中には70歳を過ぎてようやく合格した例もありました。

しかし、時代や科目によっては、一部の科目に年齢制限が設けられていました。例えば、明経科では唐代には15歳から30歳まで、宋代には20歳から40歳までと定められていました。また、明代には進士科の受験者に対しても30歳以下という年齢制限があった時期がありました。

参考文献

科挙の話―試験制度と文人官僚 (講談社学術文庫)』:村上哲見著。科挙の歴史と実態を唐宋を中心にして解明し、韓愈・柳宋元・白居易・蘇軾ら受験競争の中に生きた知識人たちの姿をエピソードを交えながら描き出す好著です。
科挙―中国の試験地獄 (中公新書 15)』:宮崎市定著。科挙の制度や内容、合格者や不合格者の生活や心理、カンニングや不正合格などの問題点などを分かりやすく解説した入門書です。

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