評価と自己矛盾の話。
一気に肌寒くなるこの季節。
また今回のこのシーズンがやってきます。
それは、人事考課面談、です。
ちょっと過去の記事を探ってみたら、まぁクドクドと書いていますね。
https://note.com/furokun/n/n46b7f51904e3
この時は、一言でまとめてしまうと「自分では結構がんばったつもりだったけど、そんな評価されなかったよ、えーん」という内容について長々と書きました。結論としては「期待はしないようにした方が良いよね」というところです。
勤務先は年に2回、夏と冬とでそういう機会があるのですが、基本的には、この記事を書いた当初と今とで気持ちに変化は無いです。そして気持ちだけでなく、成果という点でもさして違いは無いでしょう。
なので、今回も別に高く評価されることも無いですし、そのことについていい加減不満だったり期待だったりを持つというのもやめようと思っています。
そのうえで、この時期になると、どうしてもやっぱり胸がモヤモヤする感じがあるんですよね。期待しているとかではなく、単純に胃の辺りが何だか焼ける感じと言いますか。
何故なんでしょう。
ちょっと考えてみると、それは「評価されること」それ自体に対して、個人的に気持ち悪さを抱いているように思うのです。
「気持ち悪さ」なんて、ちょっと乱暴な言葉を使ってしまいましたけど。
そもそも、「他人が他人を評価する」ということが苦手です。
もちろん、評価をしなければならない仕組みも分かりますし、何ならその「評価」というのは「特定の基準」に照らし合わせた結果でしかないということも承知しています。
たとえば、社内ですごく良い評価であったとしても、その人が会社の外で通用するとも限らないし、そのことがその人自身を高貴な人物であるとか人格者であるということを意味しているわけではないことを知っています。
その逆に、あまり良い評価ではなかったとしても、その人の人柄だったり人格を否定するものではありませんし、部署や会社などの環境が変われば評価が180度変わる可能性だってあるでしょう。これらは「会社内の基準」、下手したら「評価する側である上司の基準」に照らし合わせたものに過ぎないわけです。
ちょっと出過ぎた話をさせてもらえば、会社に限らず、どの組織であっても同じなのかなと思います。たとえば学校における評価。通知表とかもそうです。
※その話も記事に書いてました。しつこいくらいこの話してますね。
https://note.com/furokun/n/n247135fd2bfd
https://note.com/furokun/n/n2eef2b2587f8
いずれも、その組織内でしか通用しない評価ということは理解しています。普遍的ではない、限定的な評価基準です。まあ普遍的な基準なんてものがあるのかというと微妙ですけど。
ですが、仮に限定的な評価基準だったとしても、どうしても「あなたに何が分かるの?」ということを個人的に思ってしまうのです。
どんな評価基準であっても、本来なら、その人の働きだとか成果だとか、もしくは周りの人との関係性とかそういうところを見ていると思います。
つまり、評価される対象の人の生み出した結果としての「外見」だけでなく、その人自身に備わっている「中身」、それから他人とのやり取りの中での振る舞いといった「周辺」がそれにあたります。
様々な評価方法がありますが、それらを勘案して「あなたはこのくらいです」とバシッと決めてしまうわけです。
個人的には、これがどうにも苦手なのです。私は、会社内においては主に評価される側ではありますが、これが評価する側であっても嫌です。
絶対評価にせよ相対評価にせよ、どうしてもその人の主観が入り込んでくる。完全に定量評価であることはまず無いです。経験上。その主観によって、どんな評価結果であっても、評価される側の人をどう見ているかが変わる。そしてそれは、評価される側にとっては如実に分かるものだと思うんです。
少なくとも、私は、上司だろうと先輩だろうと、いやいや学生時代にあっては先生だろうと、「あなたの成績(実績)はこれなんです」と言われた時点で、そんなふうに思っていたんだなと若干の嫌悪感を抱くのです。
繰り返しますが、それは「どんな評価結果であっても」です。
たとえ良くても悪くても、やっぱり「何が分かる?」「いったい何を知っている?」と思ってしまいます。良いなら良いで「本当はそんなに出来ないのにな・・」と不安になるし、悪いなら悪いで「いやいや、結構結果出しているはずなんだけど?」と不満になることでしょう。
結局、評価する側の人が「何も知らない、何も分からない」ということは存じています。評価する側の人は、評価される側の人を特定の基準に当てはめると書きましたが、そうすることしか出来ないということも知っています。
しかしながら、私は私自身をもっとも長い時間見ている立場としては、「そんな評価は違う」と思ってしまうのです。良くても、悪くても。
・・まぁ当たり前なんですけどね。自分自身が内面から見た評価と、他人が外から見た評価に乖離があるということは。
ただ、それは仕方ないとしたうえで、やっぱり「なんも知らないくせによくそんなふうな評価を下せるよなぁ」と胸の辺りがムカムカするような不快感を抱くわけです。
極論、もし結果がすべてであれば、評価なんてしなくていいのに。個人的にはそんなふうに思ってしまいます。結果が出ないなら評価されなくていいし、結果が出ているならそれ自体を評価してくれるだけでいいよと。上司だとか同僚だとかで、変なバイアスのかかった評価を入れてくれるなよ、と思ってしまうわけです。
まぁそう言っちゃうと、評価制度とかそういう仕組み自体を具体的にどうすりゃいいのさという話になりますが。残念ながら、今のところ、他の様々な評価システムを眺めてみても、ちょっと私にはこれが正解ですみたいなものは見当たらないんですよね。
とはいえ、会社組織としては、利益を分配する点でも組織の競争力を上げる点でも、何かしらの評価制度をせざるを得ないでしょう。また同時に、従業員側としてもそれに従うほか選択肢は無いというのも承知しています。
結局、これは私の単なる、みみっちい愚痴に過ぎないわけです。なので、上司や会社を批判するつもりも一切無いのです。評価システムに不満はあれども、それを変えようと努力もしませんし、ただただその機構に飲み込まれるをよしとするだけです。
私は、会社が求める結果を満足に出すことのできていない生産性の低い人間であって、また他人に何かをアピールするような意欲も表現力も無いために、こんなふうにモヤモヤするのかもしれません。いえ確実にそうです。言い切れます。
さらに言えば、私はサラリーマンに向いていないことは自覚していますが、その一方でサラリーマン以外にやっていけないことも分かっているわけです。評価なんてしたくもないし、されたくもない。他方でその評価の枠組みの中で上手くやっていかないと生活していけない。
これって、何とも自己矛盾がすごいですわ。
井の中の蛙ですよね。意味違うか。
ですから、評価は評価として、私に下されるあらゆるものはそれで正当なものだと思いますよ。できないものはできない。仕方ないじゃないですか。
仕事できるスーパービジネスマンじゃないんですもん、私は。申し訳ないですけど。逆に「仕事できますね」って言われても困ります。できないなりに愚痴くらい吐かせてください。それで許してくださいごめんなさい。誰に謝ってんだか分からないけど。
ということで、書いて少しスッキリしました。
結論、やっぱり評価なんて嫌なもんですね。するもされるも。でもやらなきゃいけない。サラリーマンだから。
愚痴満載になってしまいました。良くないですね。お目汚しで大変失礼いたしました。このテーマで書きだすとキリが無いのでこのくらいでやめときます。おしまい。
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