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草むしりで満たされた欲求の話。

我が家は一軒家です。

猫の額ほどではありますが、一応、庭もあります。

次第に暖かくなってくる今の時期は、雑草も伸び放題。ずっとサボってましたが、いい加減、庭も草ボーボーになってきましたので重い腰を上げるとしました。

日曜の午前中。気が付けば、時間めいっぱい使って草を刈っていました。

眼前にある After と記憶の中にある Before を比較すると、なんともキレイサッパリ。小さな庭ではありますが、少しくらいなら子供たちも駆け回れるようなスペースができました。良かった。

さて、草むしりの後、妙に晴れ晴れとして気持ちになりましたが、どうしてだろうと考えてみました。

いや、よくよく考えてみると、草むしりの作業中も、何だかやっていて楽しいと言いますか、高揚感のようなものを覚えていました。何故なのでしょう。

昔は、小学生の頃、地区の子供行事だか学校のイベントなんかで、公園とか校庭の草むしりをやらされたことを思い出した。その時は本当にただただ面倒くさくて、疲れるし、暑いし、「やりたくねぇなぁ」と思っていたものでした。

ですが今は、草むしりを率先してやるし、たとえ家族の誰も手伝ってくれなかったとしても私一人で進んでむしります。ボーボーに生えた草を無心になって刈ったり引っこ抜いたりしていると、何だか楽しさすら感じられます。そしてあれだけ無法地帯に生え散らかしていた草が無くなると、それはそれは大きな達成感があるのです。

この違いは一体なんでしょう。

一つには、ここは自分の家。自分の意思と離れたところで自分の持ち物が汚れて喜ぶ人はそう多くないように思います。それと同じで、自分の家なのだから出来ることなら綺麗にしておきたい。そういう気持ちが働いたのかなと思います。何より、自分の家だからこそ、自分自身で気が付いてちゃんと綺麗にしてあげたいなと。放っておいても誰も掃除はしてくれないわけですから。

もう一つは、達成感と充実感。上にも少し書きましたが、Before After を(記憶の中で)見比べますと、歴然の違いがあるわけです。だって「これって野菜なのかな?」ってくらいに生い茂って青々としていた大きな草花は、もう見る影も無いわけですから。何にも無い。なんにも。いや、多少の小さい草の芽とかはありますけど、ボスキャラは一網打尽にしたわけです。お金を払って業者さんに草刈りを依頼するという手もあるかもしれませんけど、我が家はそこまで裕福ではないですし、何より自分で身体を動かすことの気持ち良さ、爽快感。そういったものがあるように思うのです。

ああ、なるほど。誰もやらないから自分でやる。そしてやったらやったで、たしかに疲れるけど、綺麗になって気持ちが良いし、運動した感もあって健康的だと。

そういうわけで、やってて嬉しい気持ちなのだと理解しました。

思えば、普段こんなに「あー、やり遂げたなぁ!」と思うことってあったかなと。

仕事にしても、最近は、「ちゃんと出来て当たり前」「動いて当然」というものばかりですし、新たな仕組みやサービスを構築するというものも、無いです。自ら進んでやったこともそこまで喜ばれず、大きな仕事をやった後であっても、達成感よりもまず「トラブルが後で起きないだろうか…」という不安感ばかり頭をもたげます。

プライベートでも、特に私は普段からスポーツをやっているわけでもないですし、趣味はちょこちょこやってますけど、せいぜい1週間か2週間のうちに30分くらい時間をとるか取らないかというものだったりして。読書は毎日してますけど、それも「読む」行為自体がもはや日常の中で当たり前になっていて、読む楽しみもそうですけど、読了感もそこまで無いです。

そう考えると、草むしりって、すごく今の自分の中で良い感じに何らかの肯定感を高めてくれるものと言いますか、非常にちょうどよいアクションだったんだなと思いました。

かなり俗っぽい言い方をさせてもらうなら、自分の欲求をここまで手軽にそれでいてたしかな形で満たしてもらえるなんて、草むしりとは何ともありがたいものなのだなと。

結局、自分の欲求をただ満たそうとすると、何かしらに影響が及びますから。他人だったり自分の心身だったり。それが、草むしりは誰にも迷惑もかけず、です。いや、草木には迷惑かもしれないですけど。根こそぎやられますから。子孫を残そうとする彼らにとっちゃ私は悪の権化ですね。

うーん。とても興味深い。実はもうちょっと草むしりについて書きたい気持ちがあったのですけど、激しく脱線しそうなので今回はこの辺でやめておきます。おわり。

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